2024-01-30

犬は私を幸せにしたのか

犬を飼った。妻の長年の夢だったからだ。それにここ5年くらいバタバタしていた我々夫婦生活も落ち着いてきたタイミングでもあった。

犬はとにかくかわいい。今では妻よりも私の方が多く面倒を見ている。

ずっと犬のことを見ていても、ずっとかわいいと思える。甘えてくるところもかわいいし、家の中で日向ぼっこする姿もかわいい、うんちを踏ん張る姿もかわいい、足の指の間の獣臭もかわいい。私の顔の油分が多いからだろうか、夜になると必死になって私の顔を舐めようとしてくるので、毎晩お風呂に入る前に好きなだけ舐めさせてあげている。

そんなかわいい犬がいる生活に慣れてくれると「私は犬を最大限幸せにできているだろうか」という考えが付き纏うようになった。そしての当然「いや、できていない」という答えがその後に続く。私が仕事をしている間、犬は退屈そうに寝ている。散歩していると駆けずり回りたい気持ちを抑えきれずにリードを引っ張り苦しそうにしている。散歩中に地面の匂いを嗅ぎ始め、立ち止まるので無理やり引っ張って先に進む。そんなこんなで、私は犬にとって100%提供できていないではないかと感じるようになってしまった。犬をかわいいと思う度にその罪悪感は私を襲う。

私はこう考えた。確かに100%提供できていないが、それでも1日2回散歩に行って、毎晩おもちゃで遊んで、週末はドッグランに行って、犬もきっとそれなりに幸せだろう。それでいいじゃないか、私にも生活があるし、そもそも誰が100%提供できるのだろうか。できる限りを提供して犬がそれなりに幸せならいいじゃないか、と。

でもその罪悪感は消えなかった。それは正しさの問題ではなく、感情問題からだ。犬をかわいいと思えば思うほど、その大切な存在幸せにしたいという欲求が生じる。そして、100%幸せにできていない自分への痛みを感じる。

ペットを飼う行為の是非を問うているのではなくて、本当に大切なものができるという事は良いことなのか悪いことなのか私には分からなくなってしまったということである。伝わるだろうかこの感じ。

  • 犬でなくて人間に対しても、自分が100%の幸せを提供できるなろうか、できているだろうか、と考えてしまうことはある。 理想というのは手が届かないから理想なのであって、そこに到達...

  • 犬は幸せの閾値が低いのでワレが毎日エサくれるだけで大満足やで。 猫みてみい。えらい違いや。

  • 散歩中に地面の匂いを嗅ぎ始め、立ち止まるので無理やり引っ張って先に進む。 これだけでもやめて自由に嗅がせてほしい 散歩の自由度は大事

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