引き戸の扉を開けると鈴が鳴り、「いらっしゃい」というマスターの渋い声。
はい。と僕。
釣竿を渡され、店の奥へと進んで行く。
扉を一つ抜けると曇り空が出迎え、屋上のような広間に出る。
中央には蓮池がひとつ。丸いような、それでいて歪んだ輪郭をしている。
水は濁っており、中は見通せない。
僕は隅の方へ眼をやり、手ごろな椅子を見つけては、それを手で引っ張り池の前に置く。
そこに座って池へと糸を垂らした。
魚の名は増田。
しかし誰も自分が魚だとは気づいていなんだよ、とマスターはいつの日にか僕に言った。
いつの間にかマスターは僕の隣にビールケースを逆さに置き、椅子として座っていた。
どういう意味ですか?
「…ふぅ。誰も、自分が何者かなんて考えもせずに暮らしてる。それで十分だし、それで十分なんだ」
はぁ、と僕。
「だったら魚みたいなもんだ」
店長は笑って言う。
そういうものなのか…もしれない。
お店の方はいいんですか?
「ああ、今日はどうせもう、店じまいにしようと思ってた」
何か飲むかい?
そう聞かれて答え損ねていると「ビールだな、今持ってくる」と店長は立ち上がる。
あ、ありがとうございます。
言おうとした手前、竿が大きく撓った。
「大物だな、逃がすんじゃねぇぞ」
竿は唸るように撓り、ゆっくり慎重に糸を巻いていく。
すると増田が僕の前に姿を見せはじめた。
それは大きくて立派な増田で、自分のことを増田であるとは思っていないような増田だった。
その後ハッと我に返り、増田をもとの池に戻してやることにした。
パラ、パラと服が濡れる。
顔を上げると小雨が顔を見せている。
それは次第に大きな雨となり、この池を世界にするかもしれない。
そうすることで僕もきっと、増田になるのだろう。