嫌なことをしてきた相手の場合は、その相手が、何らかの謝罪をしてくる可能性が期待できる。
少なくとも、自分が憎しみを持つことは正当化されるわけで、いざとなれば、その罪を糾弾し、精神的なストレスを解消することだってできる。
一方で、自分が嫌なことをしてしまった相手の場合、私は相手に謝罪しなくてはいけない。
そういう点で、私はその相手に「貸し」を持っているわけで、会うたびに苦い思いをすることになる。
それゆえ、私にとって、嫌なことをしてしまった相手は、嫌なことをしてきた相手と同じように憎らしく思えるわけだ。
しかし、後者とは異なり、前者に憎しみを持つことは肯定されない。
嫌なことをしておいて、さらにその相手を憎むのかと言われてしまうだろう。
それこそが、後者より前者、すなわち、嫌なことをしてきた相手より嫌なことをしてしまった相手を憎らしく思ってしまう原因だ。
つまり、自分が嫌なことをしてしまった相手には、やり場のない憎しみが残ってしまうのだ。
まあ、誠に自分勝手な話ではあるのだが、相手に対するストレスが解消できない分、私にはそう思えてしまう。
あと、自分を助けてくれた相手(恩人)も、同じような意味で憎らしく思ってしまう。
それは、その相手の寄与が大きければ大きいほど、貸しがあることを重荷に感じるからだ。
いつか、その貸しを返さなくてはいけないとプレッシャーを感じ続けることになるわけで、その点では憎らしささえ感じてしまう。
そう、こっちは本当に自分勝手な話だ。「恩を仇で返す」という表現がまさにふさわしい。
ただ、その人にはなるべく会いたくないと思い、その人が来る会合への参加を避けたり、その人からの誘いに理由を付けて断ったりするだけだ。
つまり、私にとってのヒーローは、私の胸の中に居れば十分であり、気軽に会いに来られても困るのだ。
それは、ヒーローに再び会うことでそのイメージが崩れる可能性(嫌な一面が見えてしまうかもしれない)を危惧するからであり、
援助の認知的不協和の実験の逆のやつだ