2022-05-02

本のタイトルや帯の「教養としての...」というフレーズ気持ち悪さ

それが気持ち悪くない文脈もあるにはある。「教養としてのワイン」なら分かる。「あーワインの味よりも歴史を知りたい人向けだなー。ワインのうんちくとかも書いてあるんだろうなー」とか想像できる。

でも「教養としてのデータサイエンス」は気持ち悪い。「なんかそれっぽい単語を使ってドヤりたいだけ(と本音では思っているけど自覚がない)人向けで、そんなの売れるの?」とか思ってしまう。

教養価値がないとは言わない。でも「教養としての...」という冠には、「これはあくま教養としての本であって、読んでも役に立ちません。それを理解してお買い上げください。」というエクスキューズと、「あなたはこのテーマをよく知らないせいでコンプレックスを感じていますね?この本を読んでもそれを理解して使いこなせるようにはなりませんが、知ったつもりになれるし、あなたが今感じてるコンプレックスは解消できます。なんならドヤれますよ」という下世話なオファーが透けて見える。

世界ビジネスエリートが知っている 教養としての茶道」は、そういう意味でも意味不明。目次を見たら

とか書いてあるけど、それが教養なのか?エクスキューズと下世話なオファーに加えて、そうであったらいいなーという願望が混ざっていて、歪みまくっている。複雑骨折してる。

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