今日発売の『コウペンちゃんのやさしくなることば』に、何となく解釈違いを感じるなという話。
『コウペンちゃんのやさしくなることば』は、KADOKAWAから発売された教育向けの絵本だ。やさしくなるための言葉があいうえお順に並んでいたり、お礼の言葉や反省の言葉、食事の前後にはいただきますとごちそうさまを言いましょう、といったことが書かれている。
コウペンちゃんは元よりやさしい。でもそのやさしさって、教育的、道徳的でないからこそなのでは、と思っている。
普通の人は、朝起きただけ、出勤できただけでは褒めてくれない。ひとつ出来たら、じゃあ次も頑張りましょうという具合に教育されている。でも、コウペンちゃんはひとつ出来ただけでも褒めてくれる。コウペンちゃんがへなちょこだからだ。へなちょこだから、布団の中から出たら本気で褒めてくれるし、二度寝しちゃう日があってもいい。
そんなコウペンちゃんを、教育のために使ってほしくなかった。教育というのは、ある定まった道へ誰かを導くものだと思う。私にとって、コウペンちゃんは導く者ではない。時に転んだり、時にお昼寝したりしながら、横で一緒に歩いてくれる子であってほしい。
コウペンちゃんはきっと、お礼や挨拶もきちんと出来る。けれど、それはコウペンちゃんの心から出てくる言葉であって、誰かに言いなさいと教えられたものではないように感じてしまう。
やさしくなる言葉、大いに結構。これで人類がやさしくなれるというのなら願ったりかなったりである。けれど、コウペンちゃんをその先導者にしてほしくなかった、と思ってしまうのだ。
こんなことを考えてしまう自分は気難しいんだろうか、と思う私の横で、コウペンちゃんが「いいんだよ〜」と言っている。たぶん、私の考えはわかっていないんだろうけど、「いっぱい考えてすごーい」と言ってくれる。
コウペンちゃんは沢山居るから、きっと「やさしくなることば」を教えてくれるコウペンちゃんも居るし、考えすぎる人の横で一緒にかまぼこのことを考えてくれるコウペンちゃんも居るのだ。
うん、そうだ、それでいい。
押しつけがましくてすごいネ