「この人は文才がある」は「私はこの人の言っている事が良く分かる」の究極の言い換えに過ぎない。
言わんとしていることはわかる。(「究極の」という形容を削って問いをシンプルにしてほしい)
増田の仮説は
であるべきだった。
増田は、言い換え、究極の言い換えとまで言っている。ならば「文才がある人」=「意味が通る文章を書ける人」でなければならない。
「文才がある人」>「意味が通る文章を書ける人」では言い換えとは言えない。ましてや究極の……(自重)
増田は、言い換えと言ったにも関わらず、
「あともう一つ」をしてしまった。欲張りさんめ。
増田の文章は「文才がある人」=「意味が通る文章を書ける人」ではなく
「文才がある人」>「意味が通る文章を書ける人」「喋りが上手い」
となる。「意味が通る文章を書ける」「喋りが上手い」ということは「文才がある」ことを意味する要素のひとつに過ぎないのだから、どちらも「言い換えに過ぎない」とは言えない。
「究極の言い換えに過ぎない」なんて、あまり強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ。
共に高みを目指そうじゃないか。
究極の……高みを……!
「この人は文才がある」は「私はこの人の言っている事が良く分かる」の究極の言い換えに過ぎない。だから(評価されたいのなら)大多数の大衆に理解できないような難解な文章を書...
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