言葉で説明したり、事実なんだから言うまでもないとか、そういうことで事実の根拠を示したり示されたりすることで十分な日常の人には無縁だと思うので必要ない人とあなたには必要ないとおもうしこれからも撮らなくてもいい
ただ現実にはどうか実際はどうだったか客観的にみて第三者からみて記録を遡るとなどしてもう一度確認して次の行動や現在の評価をしたいひとには撮らざるをえない
自分の記憶だけが絶対であるとはいいきれないし次回の判断にその前提を確実に生かしたいし次によりよいものを得ようと努力をしたい比較をして「前例としてあったわ」という感情のおこることを避けたいというときに撮影など記録をする
いつでもなにを見てもその日にあるものは依然のそれとは違うのだから新しい今日のそれ(前と同じもの)を楽しめるというのならば記憶も記録もないほうが楽しめるだろうとは思う
ただ私個人はそういうところについて、記録があり前例と比較もしたいし共有することで選択肢の幅をひろげたい
それだけの差でしょう
あとそれについて同意をもとめたり数量的に多い少ないで良い悪いを決めることでもないと思うのでその共感をなんのデータソースもなしに(記録もなしに)求める事について容易さを感じているのだとしたら記録を参照したい側からすれば勘違いではないかと思う