誰だって我が子には五体満足で健やかに育ってほしいだろう(これに異存のある人はいないと思う)。
利己的遺伝子理論によれば、我々はより優良な遺伝子を求めて子孫を残そうとする(ヤる相手を選ぶ)。
だったら、障害のある人より無い人が喜ばれるのは自然ではないか。
自分の子供に先天的な障害があったとき、その我が子に無償の優しさを捧げられる人は立派だとは思う。だがそれをすべての人に求めるのは酷ではないか。「この子がいなければ俺の人生はもっと快適で楽しかったはずだ」と思う親を誰が責められる。
幸運にも愛にあふれ環境にめぐまれた親のもとで育てられ自活できる障害者なら生きてる意義もあろう。
だが、自分の意思表示も満足にできなかったり(いわゆるアウアウアー)、機械の力を使わないと生命維持さえできない人間を生かしておくことが本当に正しいことなのか。
一部の障害者が(時には健常者以上に)幸せで充実した人生をおくっているからと言って、全障害者にそれを求めるのはなんか違うと思う。
マスダニ相応しい、いい投稿だな。 こういう意見は表世界では絶対に出ない。 そしてこういう意見は絶対になくならない。 そういう現実を知らしめるためにも、こういう投稿は貴重な...
国家のお偉いさんがやるのはダメだけど、俺らが振り回す分にはオールセーフにしたいってことなんでしょ 優生思想にしても表現規制にしてもみんな同じ 国家がやる時だけ偉そうな論法...
相模原の植松の事件に対する世間の反応を見てみれば、皆の本音はそういうことなんだろうと思う。