ある同性愛者の男性が「自分は生まれつきの同性愛者ではなく、幼少期に養育者から性的虐待を受け、その影響で同性愛者になったのだ」と自己規定していたとして。「生まれつきの属性かどうかで尊重されるべき行いかが決まる」という論理は、この男性の周りの人間や彼本人が彼を差別しされても仕方ない、尊重されなくていい存在だと思わせてしまうんだよ。だから現在では、「生得的か否かで線を引くべき」という考えは差別問題にセンシティブな人たちの間では採用されなくなっている
ある同性愛者の男性が「自分は生まれつきの同性愛者ではなく、
幼少期に養育者から性的虐待を受け、その影響で同性愛者になったのだ」と自己規定していたとして。
「生まれつきの属性かどうかで尊重されるべき行いかが決まる」という論理は、
この男性の周りの人間や彼本人が彼を差別しされても仕方ない、尊重されなくていい存在だと思わせてしまうんだよ。
だから現在では、「生得的か否かで線を引くべき」という考えは差別問題にセンシティブな人たちの間では採用されなくなっている
なるほど、確かに言いたいことはすごくわかる。
それならやはり、同性愛者であっても「属性で人を選る以上」差別だというほかないな。
「同性愛者である」というアイデンティティと「異性であるという理由で恋愛対象にされない」人のアイデンティティ、
どちらが優越するのか。
「自由恋愛の差別性」みたいなの、こないだの非モテ問題の時も考えてたから気になるテーマではある。
Permalink | 記事への反応(1) | 17:12
ツイートシェア
返事ありがとう。「同性愛者が同性しか好きにならないこと」も 「二重の男しか愛せない女」も差別をしているということなら、矛盾はなくなるな。 ここで「生得的だろうが後天的だろ...