2015-04-22

何かを施すためのモノづくりにおいて、他人がそれをどう思っているかという事は結構重要だ。

料理を作ってあげようとなれば相手の好みを知っているほうがいいし、盛り付けもなるべく綺麗にしたほうがいい。

ただ、私が好きなものに対して他人がどう思っているかは全く重要ではない。

私が好きな本や嫌いなグループに対して、他人が好きだろうが嫌いだろうが、それ自体が私の評価に影響を与えることは100%無い。

私が好きなものに対して、他人が嫌いだと表明してても、自分言葉で何故好きなのかを説明することができる。

あるいはなぜ嫌いなのかを説明することができる。(労力や関心の低さから、説明しないという選択肢もある)

この、「なぜそう思うかを説明するための言葉」に対して、「でも皆はこう思っているし(だからお前のほうがおかしい、マイノリティだ、非常識だ)」という言葉が帰ってくることがよくあるが、お門違いも甚だしい。

ネット社会は「皆が作り出す空気」と「一般的(と、そのコミュニティが信じる)習慣」と「数の暴力」の支配する田舎村に逆戻りしている。

皆言ってるという言葉意味がないことに気付いて欲しい。

悲しい事に、村社会ネットでは、皆言ってるという言葉意味がないことに皆が気付かないと、数の暴力イジメぬかれ、殺されてしまうのだ。

皆に意味はない。意味があるのは一人ひとりの発する言葉コンテンツだ。

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