あえて水掛け論っぽくしてみると、
「こんな悪どいことを考えてしまう私って、なんて罪深いのかしらん・・・」って考える道徳主義的な価値観の人たちだっているわけで。罪の定義はただひとつですなんて乱暴なことは言えないんじゃないかって思う。
思うだけでは具象化されない、何もしてないんだから現象的には何もメーワク掛けてない(罪じゃない)でしょって考えも勿論正しいし、説得力十分の力強い理屈だと思う。
↑の理屈を否定する気はさらさら無いんだけど、相反する価値観の人も勿論いて、
現象主義価値観の正当性を価値観の土俵が違う人に幾ら力説しても改宗させることは難しいんじゃないかな。文字通り「土俵が違う」から真っ向な議論にならない。
そういう価値観の人もいる、でも私はこう思う、で両立させとくしかないんじゃないかって思う。
「罪」を反転させて「善いこと」に入れ替えると、
「結果として善いことをしたのであれば、心のうちはどうあれその人は善人だ」と
「精神的な活動にこそ善性を見出さなければ意味が無い。邪心無しに心の底から善いことをすれば善人だが、見返りを求めて善いことを渋々やったんなら善人とは呼べない」という対立構造を挙げることもできる。
こっちが正しいんだ!って幾ら声を荒げても、そもそも価値判断基準が違う相手方には通じない。
繰り返しになるけど↑のトラバは1つの理屈として全然間違ってないと思う。
価値観って交わりもしないところに沢山転がっていて、当人が自分の気に入った価値観を採用して礎にしていくようなものだとも思う。
出来上がった脳の回路を 強引にどうこうしようとするのは 全てカルトだから気をつけろ 価値観の違いじゃない 振る舞いだけが評価に値しうる