というのが近年来の結論なのだよね。ハイデッガーの世界・内・存在を引き合いに出すまでもなく、近年のAR技術の進歩はそのことをかくも見事に裏付けている。
君たちはこうビデオゲームを世界の中で、言い換えればファッションとして楽しんだりするであろう。だがしかし、人生というクソゲーを一皮剥こうとあがく代わりに、オブラートに被せるというかフィルターをかけるというか枠にハメこむ。
それがAR(拡張現実)の思想である。ほら人生も生活もゲーム感覚で楽しくできたらいいなみたいな?でも問題はそのゲームの質なんだよ。
うまく出来てないとすぐ飽きる。人生は長い。さてどうしたものか。これはね、世渡りのできるバカにしかできない芸当な訳w換言すればあいつらは世界を定義するのがうまい。
たとえば自分以外みんな敵って考え方は社会に非適応である、と論じ立てたところで当人の中ではきちんと折り目ただしくロジックが組み上がっているのね?
言うなれば、社会に参加してはいるけれども、よくよくみるとソイツは全く違うゲームをやっている。なんてこったい、まったく違う人生を生きてたのかお前。
それを我々は「強いゲーム」と呼び習わしている。強い完全性、弱い完全性。強い仮説、弱い仮説、強順序、弱順序、もごもご。
鏡の後ろ側に回ってみると何が見えるんだい?それを是非ともしりたいものだ。滑らかに現実社会と接合しているのにもかかわらず、その裏側では全く別のドラマが起きている。