かって私らはある膝したから足の指までが動かなくなった男性の歩行補助を
頻繁に手伝っていた 仕事ではない 当然の事として
なると信じて杖を支えとして一人でそこら辺を歩きまわろうとして
明らかに降れない段差にもチャレンジして頻繁に
転倒することを繰り返していた
転倒の度に大人3人がかりで助け起こすのだが
食欲旺盛なので助け起こす側はたまらなかった
周りに歩行補助してもらえるのが当たり前だと思っていた
一人で助け起こせない時は、近くの人を呼んだり、周りに手伝えそうな体力を持った
そんなことがずっと続いて疲れていた 家の人は周りから
また一人で歩こうとして転んで助けてもらったと聞くたび
気が疲れた 長年に渡る介護で疲弊していた 男性の態度や振る舞いに迷惑してた
入口をバリアフリー化しても、一人の時に目を離したら別の段差の高い場所に
チャレンジされてはどうにもならない 一人では助け起こせない無理
男性が別の病気で亡くなった時に、家族は介護から解放され家族を失う悲しみと共に
ホッともした その手助けの時間分自分のしなければならない事に削く時間が
かなり削られていたから 綺麗事を信じて他人に押し付ける人の陰では支えている人達の
辛さなど軽視されがち 男性は最期まで自分は再びどこにでも行けるようになると
信じていた
そんなことを思い出すのも真夜中だからだろうか
それと大抵の人がネットで成長する過程で抱える黒歴史(あんな事言っちゃった書いちゃったという後悔)が
成長を見守られず批判も適度に切り上げられず、大衆が他人を見下すネットコンテンツとして
頻繁に消費されるようになってしまったのはいつからだっただろうかはてなと首をかしげる
紅茶にマドレーヌならぬ、コーンスープに麩みたいな棒状の駄菓子を浸して
かじれば失われたヲチを銀の鍵の門を越えて再び取り戻すことができるのだろうか
甦った悲しみを封じる為にこの日記記事をあえて記し
どうでもいいことかもしれんが、失われた時を求めるにあたって駄菓子が出る必然性全くないよね。