2023-02-12

松竹氏が忘れていること、あるいは何故共産党オタクの敵か

松竹氏なり、共産党批判的な人は「非民主主義的」だというような形で共産党批判するがこれは当たり前のことだ。

民主主義、というか公正な選挙のために言論の自由重要なのはこれは当然のこととして理解できると思う。では言論の自由表現の自由内心の自由とはなんだろうか?「家の中で叫ぶ自由」「誰も見ていないところで絵を描く自由」でないことはこれもまた当然だ。すなわち、出版したり、インターネットで公開したりする自由必要となる。

では、出版自由のためにはなにが必要だろうか?編集自由に行える必要がある。印刷自由に行なえる必要がある。作った本を自由流通させる必要がある。物流倉庫自由運営する必要がある。小売店自由経営する必要がある。DTPに使うコンピューター自由に開発できなければならない。ソフトウェア自由に開発し販売したり頒布したりできなければならない。つまり、結局のところ「言論の自由」というのは「あらゆる商業活動を行なう自由」であり「私有財産肯定」であり資本主義だ、ということになる。

まり、「民主主義」と「資本主義」は全く同じものだ、ということになる。共産党が「表現の自由」を極度に嫌うのも当然で、それは反共産主義的な発想だからだ。

まり党首公選、すなわち民主主義の導入を共産党に導入せよと要求する、というのは共産党共産主義を捨てろと要求していることと同義となる。これは反党行為のものだと言える。

プロレタリア独裁とは結局突き詰めて考えれば個人独裁にならざるを得ない。「資本家」を排除するというのは、結局民主主義言論の自由排除なのだから。そこでは意思決定の全てが不透明で、個人のあやまりが増幅されやすく、相互不信の嵐が吹き荒れることになるが、それでも現代哲人政治平等社会を目指すのが共産主義者の仕事ではないだろうか。それが可能かどうかっていうと、僕は不可能だとは思うけど、

松竹氏は、結局共産主義とはなにか、ということをすっかり忘れているのだと思う。朝日新聞などは「激しい路線対立があったころならまだしも」などというようなことを言っていたが、結局、これこそが今の共産党の最大の問題なのだ僕は思う。多くの党員がもはや共産主義者ではなくなっている。最大限強権的な運営をしなければ、もはや党は維持できないのだろう。

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