2022-03-05

悪魔の証明

そもそも考えてみれば悪魔の証明とは二値(真偽)命題特殊な例に過ぎない

たとえば「生きている」は「死んでいない」ともいえる。

「死んでいる」は「生きていない」ともいえる。

ある人間に関して、生きているかどうかという証明は、死んでいるかどうかという証明でもある。

一体証明義務はどちらが負うべきなのか?

かりに否定文を主張する人が負うべきと考えてみても「死んでいない」と主張する人間が負うべきとも「生きていない」と主張する人間が負うべきともいえてしまう。

翻って「全くないかどうか」という話はそもそもあるかないか」という話ともいえる。

悪魔の証明はなぜか根本的には真偽命題という構造が同じもののなかで、存在論に関する命題だけを特別視し「あると主張する方が証明せよ」ということにしている。

しかしその理屈はどこにあるのか?

前の例になぞらえれば、「ある」は「存在しないわけではない」と否定文にもできる

「ない」は、「全く存在しないという認識事実に反する」「反さない」とこれもまた肯定文と否定文と自由に行き来できる形式に置き換えられる。

悪魔の証明一見(なぜか存在非存在に関する命題に限って)肯定文を主張する側が証明せよという約束事に見えて、実はそこには一貫性がないのだ。

上のことを踏まえて、なんで悪魔の証明詭弁とすることが都合のいい弾圧じゃなく合理的ものなのか説明することは可能か。

悪魔の証明っていうのは対立側が存在しないということが証明できなければ自分たち存在するという主張を真とすること

俺がやってるのは存在しないということが証明できなければ、わからないということにすべきだと言ってるだけのこと。

俺は存在するということが証明できない人間にも、わからないということにすべきだというだけなので、俺の発言動機自分にとっての都合のよさとか党派性はない。公正な態度で議論しているに過ぎない。

悪魔の証明否定する人間には悪魔の証明をしてくる側が正しい証明をできなれば存在しないということを真とするという人が往々にしている点で自分達が嫌悪してる人間と同じ穴の狢なんだよね。

からないことをわからないということにできない時点で、悪魔の証明を用いる人間も、用いて来た側の主張を無効にするような人間学問にはそぐわないんじゃないかなって思える。

自分なりに悪魔の証明について考えてみて、やっぱり悪魔の証明詭弁に組み込むことには合理性がないように思えるのでした。それを詭弁とする方が結局学問の妨げになるんじゃないかという科学哲学的な意見をここに残しておく。

今でこそ確かに悪魔の証明学問でも唾棄されているようだけどね。

学者自身別に哲学やってるわけじゃないか悪魔の証明というものについて深く考えてみた人は少ないからこの現状なんじゃないか

悪魔の証明を悪しきものとする考え方は結局、どちらかといえば誤まった事実認識を横行させる方向に強く働くのではないのか。これを詭弁としないほうがましになるかもしれない。

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