はてなキーワード: ベルとは
左右とかリベラル保守とかでチーム分けして争うことに何の意味があるんだ?子供の運動会で赤白帽を被って陣取り合戦をしているようなもんだ。
まず、支持する政策の違いが結果的に集団の違いを生むのであって、もともと陣地が決まっているわけじゃない。
経済政策にしても、社会福祉にしても、環境問題にしても、それぞれの政策が持つ影響を理解し、それをもとに支持するかどうかを決めるのが本来の姿だろ?
ところが、世の中の大半の連中は「私はリベラルだから」「私は保守だから」と、自分の所属するグループに盲目的に従う。まるでロボットみたいだ。
自分たちの立場を守ることばかり考えて、相手の意見に耳を貸そうともしない。意見の違いを議論し合うのではなく、ただ相手を攻撃するためだけに時間を費やす。それで、一体何が得られるというんだ?
リベラルだろうが保守だろうが、そんなラベルを剥がしてしまえ。自分が信じる政策や意見について、客観的に考え、他人の意見も尊重する。たとえそれが自分とは全く逆の意見であっても、耳を傾け、理解しようとする姿勢が必要だ。
議論の目的は勝ち負けじゃない。より良い解決策を見つけるためのプロセスだ。相手の意見を聞いて、その中から自分が見落としていた視点を見つけることができるかもしれない。そうやって、より良い政策を模索することこそが、真の議論の意義だ。
同棲してる恋人のことを「同居人」とか言ってぼかしたりするけど、その言葉の使い方をする意図がわからなすぎて、気になり始めたら止まらなくなった。
で、ぐるぐる考えてそこそこすっきりしたので残しておく。
最終的には「なぜ同居人を使うのか」ではなく「なぜ引っかかっているのか」という自分の感情掘り下げですっきりしちゃったので、結局「同居人」という言葉を使うこと自体はどうでもよかったのかもしれない。
モヤモヤしない例でいうと、会社で「同居人が怪我をしたので病院に連れていきます(だから遅刻します)」みたいな文脈だったら、遅刻する理由は説明しないといけないけどプライベートに踏み込んだ話はしたくない、TPO的にするべきじゃないと思っての「同居人」チョイスはわかる。その同居人は友達かもしれないし恋人かもしれないし事実婚関係かもしれない。でもこの文脈でわざわざ関係性を明かす必要はないし(どちらかといえば同居しているという事実のほうが重要)、聞いてる方もそこまで説明してとは思わない。
逆にモヤモヤする例は普通にプライベートの雑談とかで自ら「同居人が〜」って言われるor書かれるとき。「なんでその言葉のチョイスにしたの?」ってなる。
しかも大抵そういうときって「同居人」である必要がない。「友達」「恋人」「知り合い」でも通じる。なんなら「友人」「恋人」「友達の友達」とかはっきりしてくれたほうがスッと頭に入ったりする。そこでわざわざ「同居している」という状況説明を付け加える意味とは。
結論として、私は「同居人」という言葉を変な意味を付け加えてしまっていたのだった。
私の中で「同居人」は「相手との関係性を表す言葉カテゴリ」じゃなくて「状況を表す言葉カテゴリ」であると変に捉えていた。さらに「同棲している恋人のことをぼかしたいときに使われる通称用語として新たな意味を持った一般名詞化しつつある謎用語」みたいな感じになっていた。って考えに至ったらわりとスッキリしたのでモヤモヤが供養された。
前者は、「同居人」は「「誰か」と同居している」というのを名詞化したものであり、概念であり個人を指してないだろ!という感覚だった。「人」って付いてるのにね。
後者は一般名詞を一般名詞でぼかす不思議さを感じていた。性行為のことを「仲良し」ってぼかす謎文化(?)あるけど、あれに近い感覚。
辞書によると「一緒に住んでいる家族以外の人」が同居人ってことらしいので、文字通りで「相手との関係性を表す言葉カテゴリ」が本来正しい。友達とか恋人と同列で語れる言葉。ラベルみたいなもの。そりゃそう。カテゴリが一緒だけど、レイヤーは違う感じかな。
もちろん辞書的な意味はわかってはいたけど、私の実体験として「同居人」が実態として同棲している恋人であることがほとんどであったから、バイアス(?)のようなものがかかっていて、色々ごちゃごちゃになっていたのだと思う。
だから「同居人」という言葉で説明されるとなんとなく全体がモヤがかっている文章に思えて、本質が掴めないような気がしてた。本当に「同居人」としか言いようがない関係の人もいるだろうけど。
「ぼかす」意味で利用している人も、「一般名詞を一般名詞でぼかしている」のではなくて「レイヤーをあげてぼかしている」なんだとやっと気づけた。そしてレイヤーをあげてぼかしている理由は私にとってどうでもよかった。千差万別だろうし。
なんだか文章にしてみると当たり前過ぎてなんでそんなモヤモヤしてたんだという気はするけど、これで明日から「同居人」と聞いてもモヤモヤしなくなるのは嬉しい。
普通に付き合ったり女の子と遊んだりするときも、「ベルトを取って大丈夫でしょうか」とか「ズボンを脱いで大丈夫でしょうか」とか「「ペニスを出して大丈夫でしょうか」というやり取りがあるんだよ。
俺自身の経験からすると、「人として接していない」状態というのは相手をパラメータや概念で認識している状態のことだな。
例えば相手を「20代の若い女」クラスのインスタンスだと思っていて、だから "好きな食べ物()" 関数を適用したら "オシャレなパスタ" が返ってくると思っているような捉え方だ。
現実はそうではない。
「20代の若い女」というのは単なる類型についたラベルであって、目の前の相手が(たとえ20代の若い女だったとしても)その類型に当てはまっているとは限らない。
そして相手を一方的に「類型」に当てはめて解釈しようとすることは失礼にあたる。
相手の属性を一つ一つ聞き出して理解し(かといってもちろん初対面で不躾に質問リストを浴びせるようなことは失礼に当たる)、何かのクラスのインスタンスとしてではなく属性の総体として相手を理解することが求められる。
男女逆の場合でも、合コンの相手を「商社くん」とか「コンサルくん」とかほざいてる女もいるだろ。あれも相手を人間扱いしてないわけだ。
その手で吊り革を掴んで、それをまた別の人間が掴んで券売機のボタンやらテーブルやらをベタベタ触って、と考えると暗澹たる気持ちになる。
うんこの方がまだマシで、気持ち的には十分嫌なんだけど、まあ紙越しに拭き取ってる訳だから別に汚物をベタベタと手に付けている訳じゃない。
小の方がタチ悪い。これも気持ち的な問題はさておいて、ちんちんそのものが汚いという訳ではないと思う。何もわざわざおしっこがちょっとついてる亀頭を掴んで用を足す訳でもないし。
それでも立ちションだとおしっこが跳ね返りもするだろうし、さて置いたけどちんちん触ってるのも気持ち的に十分嫌だ。
まあその理屈で行くと、おしっこや下手すればうんこのついたトイレの床を踏んだ靴でそこら中を歩き回る訳だから、土足禁止の場所以外に安全地帯は存在しない事になるけど。
実際おれは地面に座れない。
これは菌がどうこうという訳じゃなく穢れの話であって、気持ち的なものだ。社会性を持った大人なので悪目立ちしてまでポリシーを貫くような事はしないし、マジで我慢すれば別に座れるんだけど、それでもかなり神経は磨り減る。地べたに座ることがあれば必ず帰って即座に服を洗う。
かなりパラノイアめいた所がある自覚はあるし、そういうの考え出すともう呼吸すら嫌になってくるから意識的に忘却しようと努めてるけど。やっぱり嫌なものは嫌だ。強迫性なんちゃらだのとラベルを選んだところで悩みが解消する訳でもない。
ノベルスがライトノベルか否かって言われたら雑なノベルス語りをしたくなってきたぜ!!!!!
ということでしていきます
そもそも「ライトノベル」と「ノベルス」を分ける定義の人たちってのは昔から連綿と存在していて、例えばノベルスって言うとどういうものかっていうと以下のようなレーベルです
等々……
さて、ライトノベルとどう違うの?と言われると、ものすごい簡単にいうと「文庫か新書か」という分け方になる
ライトノベルは主に「文庫」で書かれているレーベルを指すことが多く、ノベルスは「ノベルス版(新書版)」と呼ばれるちょっと細長い感じの本で二段組で書かれているものを指す。
違いはそれだけか?と言われるとまあそれだけなんだが、もうちょい踏み込むにはノベルスの歴史を知る必要がある
1950年代ごろだと、そもそも日本における新書サイズの本と呼ばれるものは「岩波新書」に代表されるお堅い学術書が主だったもので、それに対して光文社が「大衆向けのもうちょいわかりやすい教養レーベルを作りたい」として作ったのが「カッパ・ブックス」と呼ばれるレーベルになる
(余談だが著者近影という文化を始めたのもこのレーベルが初らしい)
で、そこから姉妹レーベルとしてフィクションや物語を扱う「カッパ・ノベルス」が創刊された。
カッパ・ノベルスは松本清張や西村京太郎、小松右京など書いた日本のミステリやSF等エンターテイメント小説に多大な影響がある作品を出して大ヒットを飛ばした。
それを見た他の出版社もこぞってノベルスレーベルを立ち上げてそれぞれのレーベルで作品を発表していった。
これが大体1960年から1980年くらいにかけてのものすごい大雑把な流れで、ライトノベルより早い段階で日本のエンターテイメント小説にノベルスは多大な影響を及ぼした
特に、ミステリやファンタジージャンルに関してはこのノベルスの影響度が尋常じゃないほど高く、ミステリだとカッパ・ノベルスや講談社ノベルス、ファンタジーに関してはC★NOVELSなどで有名作品が数多く存在する
じゃあ、なんでライトノベル定義論でノベルス含む含まない論争になるかというと、ここからは若干雰囲気ベースになるが「出自のターゲット層」じゃないかというところになる。
ノベルスは刊行されているものを見てみるとわかるが結構ターゲットの年齢層が高い。ぶっちゃけサラリーマンとかそっちくらい向けの作品群が多いのだ
この辺りはレーベルの当初から社会派ミステリの松本清張などを使っていることからも伺えるだろう
内容としてもハードボイルドや伝綺小説などが多く、いわゆるエンターテイメントの中でも硬派でおじさん主人公のものも結構多い
対してライトノベルというものは、ジュブナイル小説と呼ばれるいわゆる青少年向けの文化に影響を強めに受けていて、ターゲット層的にも青少年ないし大学生くらいが主だったターゲット層になる
この辺りの歴史的経緯から来る文化圏の違いみたいなものが、「含まない」という人たちが多い理由のひとつだろう
では逆に、「含む」派閥がなぜいるのか。というと、そもそもノベルスの歴史を見てもカッパ・ブックスの成り立ちからして、「大衆向け」でありエンターテイメント小説の土壌としてあったのはここまで話した通り
で、ライトノベルも言ったらエンターテイメント小説の集合の一部なわけで、まあ内容的に近しい作品が多いからだ
この辺り、時代を経るにつれライトノベルとノベルスというのは似た成長を遂げた経緯を歩んだところがある
ライトノベルは様々な近傍の文化(漫画やアニメ、ゲーム、ジュブナイル小説)をごった煮でまとめていったというのだけれども、
ノベルスは時代が経るにつれて対象である「大人たち」の変化を受けて、アニメや美少女ゲームの文化、さらにその近傍の文化を取り入れていき、ライトノベルと似たような変遷を辿っていった
特にこれらを取り入れていったのが、講談社ノベルス(及び講談社BOX)とC★NOVELSである
講談社ノベルス(BOX)で言うと、西尾維新や奈須きのこ、佐藤友哉など
上記の作家たちは、ご存知の通り小説もさることながら、アニメやゲーム、漫画などにも多大な影響を与えていった(というか奈須とかに関してはゲームがそもそも出自ではある)
これらの作品群は内容的にライトノベルでも出ていてもおかしくない作風のものもあれど、ノベルス刊行になっている
また、ライトノベルにおいても、「C★NOVELSで出てそう」「講談社ノベルスで出てそう」みたいな作品は結構ある
(個人的には紅玉いづきさんとかはわりとC★NOVELS風味かなと思ったりもする)
実際「ブギーポップ」シリーズの上遠野浩平は講談社ノベルスで「殺竜事件」等の「戦地調停士シリーズ」を書いているし、ラノベ出身の作家がノベルスレーベルで書いている例も多い
こういった経緯で位置としてはめちゃくちゃ近い位置にあれど、しかし、ノベルスをラノベに入れるか?みたいなのがとても別れやすい、という妙な性質がこの二つにはある
個人的には、まあ歴史的経緯もあるし、レーベル史観でいいんじゃね?という意見なのでノベルスはノベルス、ライトノベルはライトノベルでいいかなあと思っている
ただここまでの歴史的経緯を踏まえても、現状似ている作品群も多いというのはあるので、含める気持ちもわかる
なので、もし今後議論する際には内容派閥かレーベル史観派閥かの宣言くらいはしてもいいんじゃねえかなあと思う
ただそれはそれとして、ノベルス、ライトノベル双方に面白い作品はたくさんある
ノベルスが好きな人も、ライトノベルが好きな人もそれぞれお互いに合う作品は結構あるので探してみるのもいいのではないだろうか
24/06/01
指摘があった「ノベルス」と「ノベルズ」の表記ゆれを修正。ちなみに表記は「novels」を日本語読みしたものなのでどっちもあるっぽく、出版社によっても呼び方に揺れがある。(トクマノベルズはズ、講談社ノベルスはス)。自分もなんかノベルスっていったりノベルズと混ざっていってしまうので癖です……