はてなキーワード: サヨクとは
はてな村という蠱毒で長年生きていると、あらゆる話題がかつての話題の焼き直しに見えてくる。
[B! 差別] 【支援者募集】滝本太郎によるデマ・名誉毀損・セクハラを告発します|李琴峰
「差別主義者にセクシュアリティを暴露された!」「訴訟するのでカンパを求める!」
3年前にもあったわそれ。竹田恒泰 vs chocolat. (ショコラ) の訴訟騒動覚えてる? ブクマカ諸君よ。
chocolat. (ショコラ) 氏は、緑髪の美しい若い女性の写真をアイコンに使い、反差別活動に勤しむサヨク界隈の姫として名を馳せた有名アカウント。
「とある国から誹謗中傷がめっちゃくる」とツイートした卓球の水谷隼選手を、「外国籍の方への差別扇動だ」「メダルを剥奪されるべき」と糾弾したことでも名前が知られる。
そんな氏について、「この人の本名は「なかむらけんじ」。皆んなで拡散して差し上げましょう。」と書いたのが、竹田恒泰だ。
chocolat. (ショコラ) 氏は激怒した。「セクシュアリティ等を暴露するような行為は重大な人権侵害だ!」「SNSという言論空間の破壊行為だ!」と。2ヶ月後、資金をカンパで募り、訴訟を提起した。
(そういや暇アノン界隈の姫、少し前ネカマ暴露とかもあったね。やはりこの世界はループしている……)
さて、当時のブクマカの反応を見てみよう。
[B! 裁判] ツイッターで実名公表、提訴 作家の竹田恒泰氏に賠償請求 | 共同通信
[B! 裁判] 竹田恒泰氏を提訴しました。|チョコレートサイダー通信
「竹田は反社」「逮捕されるべき」「マスコミは縁を切れ」と、刑事での有罪を確信したブコメで埋め尽くされている。
提訴の際には、たかが1民事訴訟に過ぎないのに、共同通信や東京新聞の記事にもなった。
そして2年後、結論が出た。
竹田恒泰@takenoma
ブクマカはだんまり。訴訟を報道した東京新聞や共同通信もだんまり。これこそ人権侵害じゃないのかね? 言ったものは言いっぱなし、全く名誉が回復されていない。
私も竹田恒泰はひでぇやつだ、差別主義者だと見做しているけれども、どんな大罪人にだってあるはずのものが人権ではないだろうか。
前に有った類似案件にケリをつけてからでなければ、我々は議論を前に勧めていくことはできない。
実名暴露の大本の情報源だった菅野完氏は騒動中、「中村健治くんは頭が悪い。なかむらけんじって誰ですか?って書けば良かったのに。そうすれば俺も竹田も嘘つきになったのに」とコメントした。
その文脈で言うならば李琴峰は頭が良い。自分のセクシュアリティは非開示にすることで、滝本太郎をデマ屋扱いすることに成功している。
(※なお、トランス絡みの議論に詳しくない人は、「私は法的にも身体的にも、あらゆる意味において女性だ」と李琴峰ははっきり書いているではないか、セクシュアリティを開示しているのではと思うかも知れない。
しかし、まず「身体的」の方から言うと、「トランス女性の身体はあらゆる意味で女性」というのがアライ界隈の常識なので、何の情報も含んでいない。
「法的」の方にしても台湾と日本では性別変更の法制度が全く異なり、台湾のほうがハードルは大きく低い。よって台湾において性別変更したとして、それが日本にも法的効力を及ぼすかと言うと限定的なものとなる。よってこれも滝本の投稿を否定するものではない。)
一方、滝本太郎にしても竹田とは異なり、直接その裏付けができていないとして、李琴峰が抗議するより先に問題の投稿を削除した。ただし「本人は生得的性別を言うべき立場だ」とし謝罪はしなかった。
李琴峰氏は母国の台湾でも同様の訴訟をしばらく前に提起しているとのことで、滝本太郎は、台湾の訴訟当事者から話を聞いているが、証拠は確認していないという程度の立場なのだろう。
また、「生得的性別を言うべき立場」というのは、もちろん「トランス女性はみな過去を明らかにせよ」という意味ではない。
埋没して生きていたい当事者の生得的性別を明らかにする行為は不正義だけれども、李琴峰はトランス女性の権利拡大を求めて運動しているのであるから利益相反は明らかにせよ、というのが滝本太郎の主張である。
比較してみると3年前の訴訟とは原告被告ともに大きくレベルアップしている。やはり3年前の冤罪事件の総括抜きに、ブクマカが滝本vs李のバトルについていくことはできないであろう。
暴露のきっかけになったのは、ショコラにしても李琴峰にしても自身の炎上だ。
ショコラは、竹田の暴露当時、前述の水谷隼糾弾で炎上した直後で注目が集まっていたし、
李琴峰にしても、「(安倍は)本当に腸を断ってくれないかな」、「(忘れてしまいたい日本語は)フフッ…『美しいニッポン』… フッ…」などの過去発言が右派界隈で再炎上したことが背景にある。
後者は芥川賞の受賞会見の動画がソースなのだが、そこで喉仏らしきものがかなり目立っていたことが一部の関心を引いたのだ。
また、ショコラが竹田の訴訟に至ったのは、「竹田は差別主義者という投稿は名誉毀損か」という訴訟で、竹田が地裁敗訴したことが背景にあるだろう。司法の風はこちらにあると見做して、追撃を企てたのだ。
今回の滝本vs李にしても、「女性スペースを守る会(事務局長:滝本太郎)は差別団体という投稿は名誉毀損か」という前哨戦となる法廷バトルが繰り広げられており、地裁判決は一ヶ月後だ。(ちなみに訴訟相手は台湾人で李琴峰の大学時代の先輩)
要するに聞きかじった内容を悪意たっぷりにしたためたコメントってことだろ?
言いたいのは、サヨクどもみたいに恨みみたいな念があるわけでもないのに、
こんなに悪し様に書くのか?どういうメンタリティなんだ?ってところ
正直怖いわ
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。
日本に「○国の手先」と呼ばれる政治家や圧力団体等がいるように、諸外国にも「日本の手先」と呼ばれている人たちがいる。
韓国に「親日派」と呼ばれる人たちがいるのは日本でも割と知られているようだけど、
たとえばアメリカにも「日本の手先」扱いされている人たちがいて、「日本はアメリカを中国との戦争に巻き込もうとしている」なんて言われていたりする。
「日本も実はまだまだ行けるのでは。というか、むしろ大日本帝国どころじゃない世界の支配者なのでは」と思えたり笑えたりするので、
俺が落ち込んだときの嗤いのネタや、ウヨク・サヨクの皆さんの愉快な活動の燃料として、そういう情報が集まったサイトがあったらいいな、と思うわけ。
ネトウヨご用達の転載アフィブログなんかも既にあるわけだし、もうちょっとがんばって、世界各国のそんな感じの情報を集めたサイトを誰か作ってはくれないだろうか。