はてなキーワード: 雪だるま式とは
ただ、今年の就職戦線が不利すぎるから来年に懸けたいという思いなら、
否定こそしないけど、「なんでD入った途端に就活すんの?バカなの?」と
そこそこいい大学で、GCOE持ってる専攻とかだと、D進学を決めた時点で
M2で月5~10万円、D在学中で月8~15万円程度のおこづかい(RA雇用)が出るから、
学費をさっ引いても貧しい生活でいいならモラトリアムできないことはない。
その待遇をしてくれる大学・大学院なら、ゼッタイ今でもマトモな就職ができるはず。
もう1人の増田の指摘みたく、就職したらとりあえずの食い扶持と職歴ができる。
D進して鬱になって、雪だるま式に借金と齢が増えていくぐらいなら、
就職した方が全然いいぞ?
と思ってほぼ自明だけどモデル化してみた。
時刻tで雪だるまの平均半径をr(t)とする。
雪だるまは一定の角速度ωで転がり、
ωdtだけ転がった際に巻き込む雪によって平均半径がγr(t)ωdtだけ増えるとする。
球形からの歪みは無視して、半径は一様に増えるとする。
よって平均半径の微分方程式は
dr = γr(t)ωdt
なので、これを解くと
r(t) = r(0)exp(γωt)
<誰も読まないだろうけど追記>
もう少し厳密には、半径が大きくなると同量の雪を巻き込んだときの半径の増分が小さくなると考えるのが自然。
一方で巻き込む雪の量は円弧の長さではなくて立体角に比例するべきだから、
dS = 8πrdr
となって結局同じ方程式に帰着するよね。
夢を全否定された気分に陥った。 - 手錠で首絞めてやろうか。
http://d.hatena.ne.jp/rosylilly/20080522/1211465462 の米欄で
> 点数低いって事はやれば伸びるって事だろ。
> 「勉強してる事に満足する」っていう愚行を避けていけばまあまず心配ないよ。
とあったのを読んで,
「やれば伸びるとか,そんな生やさしいもんじゃないぞ.雪だるま式なんだ」
と思い,ついかっとして以下のエントリを書いた.
ほんのちょっとだけ努力をしてみる.たとえば一週間勉強をして実力が1割伸びる.
もうちょっと努力する.もう一週間勉強して実力がさらに1割伸びる.
このときの実力は120%じゃない.1.1*1.1*100=121%なんだ.
このたった1%の上積みがすごい.
1割アップを10週間続ければ200%じゃなくて259%だ.
20週間続ければ300%じゃなくて672%だ.
1年50週間(2週間ぐらい休んでみた)なら600%ではなくて11739%,100倍以上だ.
これを複利計算という.
勉強するぞと決意して
最初の3日ぐらいは苦しいかもしれないけど,その苦しさがちょっとだけ楽しくなったとしたら,
雪だるまを膨らませてゆくような複利が始まる.
複利モードが始まってしまえば,
その時点の実力が,今から比べてプラス1パーセントのほんのちょっとの伸びだったとしても
実はこの瞬間にもうすでに人生が変わっているんだ.
勉強をするとちょっと伸びるのに加えて,ちょっと勉強することが得意になる.
ちょっと成果が見えたりすると勉強することが好きになるかもしれない.
すると,その次の週の勉強では「伸びかたの伸び方が伸びる」んだ.
それから知識は知識と知識の関係でできているから,知識が増えれば増えるほど,知識の増え方が増える.
サッカーをしていてボールの運動の物理学をぼんやり考えるようになるかもしれない.
歴史上のイベントや人物の名前が有る程度アタマに入ってくると,
テレビをぼんやり見ていて歴史問題が面白くなるから,細かいところまでついつい興味を持つかもしれない.
実力がすこし伸びると,勉強も努力もするつもりなく遊んでいるときの体験までもが,
複利モードを続けてゆくには,他人と自分を比較しないことが重要.
複利モードか否か?は,一週間前の自分よりも一週間後の自分が1%でも伸びていれば勝ち,
順位や偏差値は他人と比べた相対評価だから,
自分が伸びているかどうかの基準にはならない.
自分の実力は問題集での得点とか,覚えた英単語の個数とか,そういう絶対評価で計ろう.
イチローは,打率ではなく安打数の蓄積で自己評価している,という有名な話があるけど,
これは目先の結果に一喜一憂しないためだそうだ.それに習おう.
ただし,ちょうどよいライバルがいると,学習効率が上がるというのも間違いない.
互いに伸ばし合えるような仲間がどこかにいるといいね.
でも,目標を達成するかどうかは複利モード人生に入るかどうかと比べれば
究極的には価値が低い.と僕は思う.
だって試験には運の要素が大きい.
複利の利率がハマれば,追い込み時期に急に伸びて
タイミングが遅ければ越えられないかもしれない.
越えていても,うっかりミスで落ちるかもしれないし,
ぎりぎり足りなくてもラッキーが重なれば受かるかもしれない.
それから試験は相対評価だから,競争相手がたまたま強ければ負ける.
でも試験に受かろうが受かるまいが,試験が終わった後も複利人生モードに居続けることができれば,
その蓄積は自分を裏切らない.
それから努力してるぞ感のある苦しい努力は,やり過ぎないことが重要.
一週間前の自分をなんらかの意味で1%とか,できれば10%とか越えていれば十分.
それを(ほぼ)毎週続けてゆくことだけが重要.
苦しい努力をし過ぎると,たまに燃え尽きたりして逆効果だから.
苦しさを楽しみに変えてゆく工夫と,でもいちおう苦しいことを避けない根性と
この二つを両立することがコツだと思う.
ともかく工夫も根性も,今の10%増し(つまり合計で21%増し)で十分ってことだ.
ということで,
勉強の効率を10%だけ増す具体的な工夫を募集します.
効率を1.1倍にする技術を50個重ねて100倍になろうぜ.
いや、だから「殆どが捏造」って部分についての話だよ。
一定数の面白語録が出来上がっちゃったら後はもう雪だるま式にネタ語録が増えてくんだからそりゃ「嘘が大部分」になるだろ。
もっとシンプルに大元の雪玉が本物だったか偽物だったかって話じゃないの?
ああいうのはある程度の数になったらあとはもう雪だるま式に増えてくだけだろ。
官僚とか国家公務員とか国家試験という評価制度を抜けて競争原理が働いているところはいいんだよ。
がんばってるとおもうよ。
でも、最小自治区レベルに目をむけてごらんよ。
彼らは競争原理も成果評価とも無縁。
それでも、それなりにしっかり働いている人の数の方が多い。
しかし小さな組織では例外的存在が極端だとあれば組織そのものの姿を変えてしまう。
母数の小さな集団では能力の中央値と平均値が大きく違う可能性がある。
だから、「あの」自治労を含む公務員系の組合ですら「まっとうな評価制度を作ってくれ」と何年も前からおねがいしてるって話さ。
現行法でもそうすることになってるし。
「法律の改正をしないと出来ない」ってのは実績を作りたい政治家が「私がダメな公務員を成敗しました」というポーズをつくるためにやってるって話でもあるか。
しかも中央では評価されえない人物がよりにもよって重役についている可能性がある。
もしそのような人物がいた場合その人を排斥する手段はあるだろうか?
あるよ。
河原の草刈りの仕方が気に喰わない住民がいて、市長が担当者をクビにしなかったら、リコール投票で市長ごとクビにした自治体まであるぞ。
組織として間違った人いた場合、住民の意思を反映できるのは市町村議会しかない。
しかし、その人物が地場の地主や商店の息子とかであった場合どうなるだろう。
その地方の住民も予算を気にせず「いままでどおり」を望んだ場合どうなるだろう。
住民の望み通りいくとこまで「いままでどおり」行って、破綻すんじゃねぇの?
夕張を破綻に追い込んだのは、公務員の給料じゃないし、組織の問題じゃない。
主に雪だるま式に増える借金を債務保証して貸りさせて、突然債務保証しないって言い出した国と、おいしい話に騙された市長だけどね。
国に騙されるような市長を選んだ以上仕方のない事かもしれんね。
つまさきから這い上がるように野暮ったく出っ張った腹を撫でる冷たい風が心地よかった。真冬の河川敷で大の字になって寝転がっていると轟轟と迫る夜気に全身の骨が粉砕されるのがありありと感じられて、これは愉快痛快と心ならずも笑んだ。笑った。そうしようとした。しかし、できずに咳込んだ。爺の小便じみた勢いで赤赤とした汁を垂れ流す。もう、でるのは血反吐だけだった。涙はでない。苦痛に地べたを這いずって笑いをとるやり方も忘れてしまった。屑籠みたいな街で日々をやり過ごしていくことができる程度には命乞いの作法を体得していたつもりだったが、仁義の切り方を誤ってしまったのかそれもまったく意味をなさなかった。鼻血が止まらなかった。鼻が曲がってしまったようだ。腐臭の漂う川なのだから、これは仕方のないことだったが。
あれは暴力だった。ひどい暴力だった。突然、ワゴン車に引きずり込まれ、唐突に放り出されてこのありさまだ。投げられて殴られて蹴られた。痛くて痛くてたまらなかった。豚のように泣き叫んでいた。助けは一向にやってこなかった。ずっと待っていたのに。あの瞬間、自分はこの世に唯一の豚だった。だから哀れみの言葉もかけられなかった。首を落とされるのを待つばかりだった。怯えることは許されなかった。すべてが痛みでかき消されていた。安物のコートも学校を出たときにもらった腕時計も携帯電話も財布も鞄も、何も手元に残らなかった。泥に塗れた上着はぼろぼろで、もはや雑巾にもならない。裂けたシャツは今も血に染まりつづけている。耳朶にこびりついた哄笑が、咳込むたびに洒落た耳飾のように揺れていて、いちいち自分の矮小さを認識させてくれる。
暴力の何たるかを知りもしなかった。あれらは社会の底辺か。職のない連中か。炎天下の車中に赤子を置き去りにして蒸し焼きにするような玉入れ中毒なのか。それか雪だるま式に借金をこさえて首をつる間際に興にのって豚狩りに繰り出したやつなのか。あいつらはいったい何者だったのか。
昨日の自分ならばそういったやつらに違いない、社会の屑だと答えていた。そういうものと一緒に暴力をパッケージしていたに違いなかった。あれが社会だ。これこそが現実だと囃し立てていたに違いないのだった。そうしてケージに入れて愛玩していた。社会的な方向性を持った、あるいは社会的に無軌道な、何らかの物語を背負った力と勘違いして。
思い返してみれば、なぜか暴力をふるう必要のない自分が――暴力に攫われない場所にいたはずの自分が――その生々しさを喧伝していた。余所から借りてきた現実という核にいばらのように暴力を張り巡らせる。それは筋の通った破滅であり、透徹した怨念だった。絶望だった。何か暴力以外の能力を持った人間が、周到に、精緻に記述したそれらのものを、今の自分は暴力と呼べそうになかった。
畜生。豚一匹を仕留め損なった暴力が、そこまでたいそうなものか。仮に仕留めたとしても豚一匹。くそ。痛いだけだ。意味のない、真実意味のない、意味がないという意味さえも持たないしょうもないものだ。外側にいる「確か」な連中は深刻で結構なことだ、まったく。お前らこそ何をやっているのか。単純な腕力を必要とせず、それとは別種のものを弄して暴力の正体を規定している。
笑い飛ばしてやりたかったができなかった。もとより、その必要はなかった。ぐちゃぐちゃの顔面が笑んだ石榴のようになっているのはわかっていたから。