はてなキーワード: 東大卒とは
幹部選抜制度もあるけど、東大卒だけ。
学生さんたちにとっちゃ学歴が分かりやすい評価でそこで良い所を目指すのだろうが
社会に出ちゃえば必要なのは金とコミュニケーション能力だよ、外人に東大卒なんて言っても相手にしてくれないんだから。
いかに信用と好印象で金を奪えるか、そりゃ全身ドロドロになりますよ。でもそんなワシらが日本を支えてるんですよ。
アホでも馬鹿でも成功を積み重ねた分だけ何千億という責任を背に商売挑まなきゃならんのですよ。
金の裏には家族がいる奴もいるんですよ、学歴だけで金が天から振ってくるならどんなに楽だってことですよ。
増田に書かれた社長さんたちもドロドロに土舐めてるんですよ、学歴どうこうだけの努力なんて努力の内にはいっとらんのですよ。
学生の皆さんは学歴どうこうで人生終わらんでくれって事ですよ。会議しただけで仕事した気になんなって事ですよ。
契約取って金が入って会社に貢献して始めて仕事になるんですよ馬鹿。
ここを見てるだろう学歴馬鹿さんはも、学歴は当たり前のもんだから、そこからさらに上を目指してくれと。
あんたらが良い大学を目指そうと秘めていた向上心というダイヤモンドを大学生活の中で捨てないでくれと。
一度プライド捨て泥を舐め這い上がってきてくれ。
同世代や一世代下の人間が社会で活躍しているのを見ると不安になってくるんです。ダルビッシュもマナカナもえなりかずきもみんな年下です。私は今まで何をしてきたのでしょう。23年間生きてきて、私は一体何をしてきたと言うのでしょう。誰も知りません。私にすらも分からないのです。
私は大学まで行きました。就職もしました。そしてつい先日辞めました。毎日慌ただしく働いている内に、こんなことを一生し続けるのかと思うと、不安で不安でたまらなくなったのです。もともと望んだ職種ではありませんでした。では他に望む職種があるかと問われると、そもそもやりたい仕事というものが、私にはなかったのです。私は自分が枠だけで中身のないからっぽの箱のような人間だということに、23年間、気付かずに生きていたのです。
仕事は望んだものではありませんでしたが、私は自分なりに懸命に働きました。仕事の覚えが早いとも言われ、もっと努力しなければならないと意欲も持ちました。しかしそれも最初の数ヶ月だけでした。そのうちに心の底でやはりやりたくない仕事だという思いが芽生え始めたのです。このままこんな所にいたらお前の将来がないぞ、お前の人生が台無しだぞ、そのような考えに毎日心を囚われるようになってしまったのです。
夏の終わり頃から、仕事中にめまいを伴った頭痛と吐き気に襲われ、忙しい時間帯にも関わらずふらふらと倒れそうになり、周りから心配された挙げ句に何度も休憩室へ逃げるようになりました。私はこんな自分が嫌で嫌で仕方なくなりました。やりたくないと思いながら仕事を続けて具合が悪くなるなんてあまりにも馬鹿げています。人間がみんなやりたくない仕事をして体調不良になるのなら、今頃人類はとっくに滅亡していることでしょう。私の場合はただ仕事から逃げたいだけの甘えです。甘えに違いありません。
甘えだとは分かっていても、心身の不調は続きました。不安に悩んでいる内に眠れなくなり、食欲もなくなり、どんどんと痩せ細っていったのです。そして日々過ごす体力も仕事に対する気力もなくなってしまいました。こんな馬鹿な自分がこのまま居続ければ職場に迷惑を掛けることになるだろう、自分は迷惑を掛けてまで居るべき存在ではない、そう強く感じ、私は辞めることを決意したのです。
辞めてからは時間だけがありました。次の職を探しもせずにこれまで働いて得た金でだらだらと過ごす時間は、虚ろな時間です。そんな中でダルビッシュが台湾戦で勝ち投手になり日本が勝ったのを見ても、乾いた喜びしか生まれません。ダルビッシュはすごいのです。21年間必死に頑張ってきたから今のダルビッシュがあるのでしょう。私は23年間頑張ってこなかったから今の私なのです。仕方がありません。いくら後悔しても、23年という時間は戻ってはこないのです。
こんなどうしようもない私は今、こんな時間に布団を被ってぬくぬくとし、ラジオ深夜便を聞きながら古くて重いノートパソコンを通して増田というインターネットの辺境の場に居るんです。日本を動かしている東大卒の官僚が見たら、きっとゴキブリの死骸でも見るかのような目付きをしながら嘲笑うことでしょう。
話が及ぶことがよくある。そこで、建前や公式論ではなく、
てもらえて、ついでに自分を高く売り込むことが出来る。
といっても、自分を知性や学歴で売り込むためには、
もちろん自分が高い学歴を持っていなければ話にもなんにもならない
のだが。さて、日本の学歴システムは非常に簡単な構造をしている。
現代日本に生きている限り、ある程度の知能が
に参加したはずだ。その競争の様々な段階でほとんどの人
が敗れ去り、その他の大学に入って(あるいは入らず)、
苛まれながら、日々を飽食やSEXや権力への闘争にあけ
くれている。
敗北感は、なにをもってしても決して癒されるものではない。
日本人全員参加の競争で、「キミはダメな人」と一生消えない烙印を押
されてしまったのだから、なにをどうしようとも、絶対に逃げられないのだ
を東大を出て言ってるのかい?」と話しかけられるのではないかと、
して逮捕され、「一流大卒エリートサラリーマンのあきれた犯罪」と週刊
誌で報道されても、実は逮捕されたことよりも、読者から「おいおい、こ
の大学が一流大かい?ふざけるんじゃないよ。チカンするなら東大を出て
からやれよなー」と突っ込まれることがもっと恐ろしい。このように、
東大以外は意味のある学歴とは言えない。すると、小さいときから有名
私立大学の付属小学校に入れたりする親の努力(お受験)はどういう意
味を持つのだろうか?子供を慶応幼稚舎に入れて、エスカレーター式に
慶応大学に入って無事卒業したとしても、まともな人は誰も学歴として
は評価しないのだが。これも、東大を補助線として考えるとよく理解でき
る。東大に合格することは人生の勝利を意味する、しかし敗北するのは
恐い。自分が東大に入れないレベルの、日本人としては駄目な人間だと
の、明白な敗北を認めるのは耐えられない。しかし、まともな人は東大
をめざして努力し、東大入試に失敗したら、その敗北を堂々と(あるい
は不承不承)受け入れて、日本社会の片隅で細々と生きてゆく。東大に
入れなかったら日本人としての人生は完全に終わったわけだが、それで
も死ぬわけには行かないのだから。東大卒の一流の学歴がなくても、
人生もそれなりに(あくまでも「それなり」だが)、庶民としてのささ
やかでちっぽけな楽しみが得られることもあるのだからね。もちろん東大
に落ちてしまったら、日本人である以上、人生の本当の喜びは絶対に持て
ないわけだが…。