話が及ぶことがよくある。そこで、建前や公式論ではなく、
てもらえて、ついでに自分を高く売り込むことが出来る。
といっても、自分を知性や学歴で売り込むためには、
もちろん自分が高い学歴を持っていなければ話にもなんにもならない
のだが。さて、日本の学歴システムは非常に簡単な構造をしている。
現代日本に生きている限り、ある程度の知能が
に参加したはずだ。その競争の様々な段階でほとんどの人
が敗れ去り、その他の大学に入って(あるいは入らず)、
苛まれながら、日々を飽食やSEXや権力への闘争にあけ
くれている。
敗北感は、なにをもってしても決して癒されるものではない。
日本人全員参加の競争で、「キミはダメな人」と一生消えない烙印を押
されてしまったのだから、なにをどうしようとも、絶対に逃げられないのだ
を東大を出て言ってるのかい?」と話しかけられるのではないかと、
して逮捕され、「一流大卒エリートサラリーマンのあきれた犯罪」と週刊
誌で報道されても、実は逮捕されたことよりも、読者から「おいおい、こ
の大学が一流大かい?ふざけるんじゃないよ。チカンするなら東大を出て
からやれよなー」と突っ込まれることがもっと恐ろしい。このように、
東大以外は意味のある学歴とは言えない。すると、小さいときから有名
私立大学の付属小学校に入れたりする親の努力(お受験)はどういう意
味を持つのだろうか?子供を慶応幼稚舎に入れて、エスカレーター式に
慶応大学に入って無事卒業したとしても、まともな人は誰も学歴として
は評価しないのだが。これも、東大を補助線として考えるとよく理解でき
る。東大に合格することは人生の勝利を意味する、しかし敗北するのは
恐い。自分が東大に入れないレベルの、日本人としては駄目な人間だと
の、明白な敗北を認めるのは耐えられない。しかし、まともな人は東大
をめざして努力し、東大入試に失敗したら、その敗北を堂々と(あるい
は不承不承)受け入れて、日本社会の片隅で細々と生きてゆく。東大に
入れなかったら日本人としての人生は完全に終わったわけだが、それで
も死ぬわけには行かないのだから。東大卒の一流の学歴がなくても、
人生もそれなりに(あくまでも「それなり」だが)、庶民としてのささ
やかでちっぽけな楽しみが得られることもあるのだからね。もちろん東大
に落ちてしまったら、日本人である以上、人生の本当の喜びは絶対に持て
ないわけだが…。
おもしろい世界設定だね。ただちょっと華がないかな。 とりあえずその設定で短編を2〜3本書いてみると問題点が見えてくると思うよ。
とりあえず変なところで改行スンナ