「彼岸花」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 彼岸花とは

2016-01-15

華金の語源

戦国時代信長統治していた安土城下では、金曜日になると、その週に出た死者の形見を集めて、酒を酌み交わし弔う習慣がありました。

加えて夏には彼岸花を供え、死者の事を思いながら皆で集まり酒を飲んだ事から金曜日に飲む事が「華金」と呼ばれるようになったというウソです。

2015-09-26

http://anond.hatelabo.jp/20150926161502

性格にもよるんだろうけど、必要性ある用事で「出て○○しなくちゃ」って思って

そんでできなかったらよけいへこまないか?

住んでるとこにもよるが、今は金木犀が咲いてるし、もうすぐコスモスも時期だ

あとはリンドウとかポンポン菊もきれいだし、彼岸花もそろそろじゃないかな

だらだら散歩するにはいい時期だと思うよ

歩いて大腿筋みたいなでかい筋肉動かすとそれだけでも結構ちがうらしいから

「なんのために」って思ったら「とりあえず歩くため」でも十分だと思う

2013-09-24

彼岸花

今、彼岸花が沢山咲いてて綺麗だね。あんなに夏暑かったのに土の中でダメになったりしないんだなぁって感心してた。

で、思い出したんだけど彼岸花って茎がすごく折れやすいじゃん。

ちょっと蹴っただけでぽきっと折れる。

小学校の頃ってそれが面白くて皆で学校の帰り道は何気なしに彼岸花を蹴りながら帰ってた。

当時花を折ってる…悪い子だ…なんて思わなかったし、今でもそんな事あったなぁって思う程度。

んで、ちょっと畦道を歩く機会があったので昔みたいに彼岸花を蹴ってみよっかなって思ったんだけど、

これがまぁなかなか出来ないんだよなー、なんか蹴れないの。

大人になったのかなーってちょっと思った。

2009-08-12

紙反故 反復について

 同じことを繰り返す。やり直しではなく、現在を作り出すために。生きる、ということの経験は、同じものとの再会に満ちている。すべてに思い出がまとわりつく。鏡でないものがあるだろうか。彼岸花水道、ドアの開閉、沓脱ぎ、階段、見るということは似たものを同じものと見なすこと、知覚は感受を名前によってくくる。くくられた以上、感受はかつて出会ったものの異なる再来となる。そうなってはじめて、世界への知識が可能になり、予測と後悔が切り開かれる。それに慣れすぎて、異なるところにしか気がつかない。異なるという意識を可能にする同じであるという知覚には気づけない。

 花だと思うから、異なる花だと思うことができる。繰り返し、繰り返す。けれど、同類であることと同じであることは違うのでは? 彼女彼女の状態のクラスではなく、彼女という個体のはずで、そこにはやはり何か違いがあるはず。たとえ、彼女細胞が一定の時間ですべて入れ替わるのだとしても。絶対的に分割不可能な単体であるということ、それはきっと不可能な形而上学だが、それなしでは人間的な関係性は成り立たない。わたしがあなたを個体ではなくカテゴリークラスだと考えたとき、ひとは現象に出会うことができるのか。であれば花が再来することと、この花が再来することはどのように違うのか。

 後悔は理想に通じ、そこから、夢が涌く。存在の再来を回想であると理想主義者は信じている。誰もが予め知っている、あのユートピアを、世界の不完全さを通じて思い出す。トラウマのようなフラッシュバック。思い出す。ぼくらは知っている。あの美しい世界を。あの美しい花を。それがイデアという追想のイデオロギー。逃れられない、繰り返し。まるで、先生にやり直しを命じられているかのよう。追憶への繰り返しは後ろ向きの反復、すなわち、やり直し! 正解はあるし、それはみんなあの夜のまどろみの中で知っている、憶えている。ああ、懐かしい、追憶の、日々よ。

 だが、それでは繰り返したことにはならない。(歯車は、繰り返し回転することで、機械を作動させる。それは、仕事をする。だから、回帰は、元の木阿弥ではない)繰り返す。こぼれ落ちたものは失敗だったのか。失敗シークエンスでは、何も起きてはいないのか。起きないのか。何かが起きる。というか、何かは起きる。繰り返しは、どのようにして、同じことではないのか。内容が違う、というのは、結果であって原因ではない。繰り返す。記憶喪失だとしよう。世界は五分前に創造された。わたしが、歌を、それを繰り返しであると信じて歌ったとき、それは繰り返しなのか。本当は世界で初めての行為でも。然り、といおう。それは繰り返しだ。だが、と、そこで、疑問がわく。「誰にとって?、そして何に対しての?」

 右と左は、端的に違う。内容的には違うとかではない。同じように、内容が全く同じ繰り返しの1度目と2度目は、端的に違うのであって、こことかそことかが違うのではない。だが、と悪魔はいう。世界の外から観測する悪魔にとっては違う。なぜなら、悪魔は憶えているから。では、繰り返すということ、それは意識の、記憶属性で、事柄の属性ではない? 奇妙な話だ。歴史世界属性か、観測の属性なのか。

 いや、もちろん、悪魔などいない、と宣言して片をつけることは可能だ。それが常識的な線でもある。結局、まったく同じ繰り返しなどないのだし、世界に痕跡を残さない行為もない。だから、繰り返しは、必然的に、内容的にも一度目とは異ならざるを得ない、と言い切ることもできる。時間歴史世界の側の属性だ、と。

 だが、ひとは忘れる。もう、たいていのことを忘れている。

 しかし、繰り返さない、ということはどういうことか、と考えてみる。それは、きっと、不可能だ。少なくとも、ひとが意識的に何かをするということは、何かという名前で知っていることを、再来させようと企むことだから、定義上、それは未聞のことではありえない。バンジージャンプをしようと思うということは、わたしがバンジージャンプを飛んだことがなくても、飛んだ人がいることが前提で、それは、繰り返しを意図することのはずだから。(死ぬことですらそうだ、ともいえるし、そうでもない、ともいえる。自殺は、必然的に失敗するから)

 だから、意識的にするのでなければ、たしかに、ひとは、繰り返さないことができる、かのようでもある。しかし、今度は、意識的ではない行為は、たいしたことを成し遂げない、という現実が現れる。たいしたことではない以上、たいしたバリエーションはない。そのかぎりで、それは似たようなことの繰り返しだ。けれど、それは、繰り返すという行為とは、わけて考える必要がある繰り返しだろう。それは重力自然法則の支配権であり、反復というよりも、永遠というべきだ。日常永遠によって捕らえられている。悪い意味で。

 だから繰り返す。そうすると、完全には繰り返せない。それが、繰り返しの成果だ。この認識自体は割と普通だ。だから、考えを始めるのは、ここからだ。繰り返すと、何かが蓄積し、わりと逸脱して、新しいことが生まれる。そうやって、歴史が存在できたし、してるし、進行中。

2009-05-21

Windowsカラーマネージメントを適用できるビューアーが利用可能に

とはいってもsusieプラグインを利用できる物のみですが。

カラーマネージメント代行 Susie Plug-in

http://hp.vector.co.jp/authors/VA048984/SusiePlugin.html#ifcms

Windowsにおいてはカラーマネージメントを適用して画像ファイルを見られるのは画像処理ソフト以外では

Firefox3くらいだと思いますがこれを用いれば軽かったり多機能だったりするフリーのビューアーを

カラーマネージメントに対応させる事ができます。

実際に色の補正が利いてるかどうかは下のサイト彼岸花写真3枚をダウンロードして表示してみるのが良いかと思います。

http://miyahan.com/me/report/computer/070125_WUXGA_LCD/ColorManagement.html#Intro

補正が利いていればどれもほぼ同じ色になりますが利いてないと全然違う色になります。

その他の参考サイト

液晶ディスプレイカラーマネージメント

http://miyahan.com/me/report/computer/070125_WUXGA_LCD/ColorManagement.html

adobe gammaの単体インストール

http://prays.blog65.fc2.com/blog-entry-52.html

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん