はてなキーワード: 菓子とは
怒りっぱなしはよくないよな・・。ありがとう、その後の経過見て、よくなってたら褒めて見るよ。変わらなかったら、別の形で注意してみる。
日本では、バレンタイン・デーは「女性が男性にチョコレートを配る日」として、完全に定着している。これが、初期キリスト教の聖人、聖バレンティノにちなんだ日で、欧米では恋人に花などを贈る日とされていることなどもごぞんじの方は多いだろう。では、なぜ日本ではチョコレートを贈る日になったかはごぞんじだろうか。一般には、神戸の菓子屋の「バレンタイン・デーにはチョコレートを」のキャンペーンが全国に広まったものとされている。しかし、実はこの前の段階がある。
この行事はそもそも昭和21年の今日、進駐軍のバレンタイン少佐が子供たちにチョコレートを配ったという故事に由来しているのだ。
意外と知られてないが、これは事実なのだ。
昭和20年冬、終戦直後の神戸にやってきた進駐軍士官の中に、彼、ヴァレンタイン・D・クラーク少佐はいた。クラーク少佐は1920年2月14日、ボストンに生まれた。誕生日の聖人、聖ヴァレンティノにちなみヴァレンタインと名づけられたクラークは、その名の通り慈愛に満ちあふれた青年に成長、陸軍に入隊した後もその性質は変わらず、太平洋戦線で戦ったにもかかわらず、日本人に対して常に敬意と愛情を持って接した。そんな彼の性格がもっとも表れているのが、このバレンタイン・デーのエピソードである。
敗戦後の混乱の中で飢えに苦しむ人々、特に子供たちの悲惨さを見かねた彼は、日本にいた3年間毎年、自分の誕生日である2月14日に、子供たちへのプレゼントとして5000枚のチョコレートを配ってまわった。かっての敵である自分たちに対しても愛をもって接する彼の姿にうたれた人々は、クラーク少佐を記念して、2月14日にチョコレートを贈り合うようになったのである。
その後、この習慣がチョコレート業界の戦略から全国的に広まり、いつしか女性が男性に贈るものとして固定化し、やがて義理チョコなどの儀式が生まれてくるに及んで、ヴァレンタインの精神も完全に形骸化してしまったわけである。クラーク少佐も草葉の陰でさぞや嘆いているだろう。どうだろう、みなさんも一度クラーク少佐の真の愛情あふれる心に思いをはせ、習慣化した義理チョコなどではなく、世界の恵まれない子供たちにチョコを贈ってみては。
参考・「現代用語の基礎知識」(自由国民社)「究極超人あーる」(小学館)http://www2s.biglobe.ne.jp/~ttsyhysh/column.html
男にとってホワイトデーは、「面倒だが関係を悪くしたくないので仕方なく準備する」というのが大半じゃないだろうか。
そもそも、菓子店やデパートを例にとっても、ホワイトデーが全然「男性のイベント」として仕掛けられていない。
むしろ「女性向けイベント」の一貫として仕掛けられていることが多く、本気で男性のイベント参加を促そうとしていないんじゃないか、とさえ感じる。
チョコのお返し用として手軽なクッキーやキャンディーが3月には並ぶものの、装飾は少女趣味でラブラブキラキラした、男性がレジへ持って行くのもはばかられる商品ばかり。
最初から最後まで「女性のための」イベントとして展開する業界の開き直りを男性はひしひしと感じているから、ホワイトデーは気が乗らない。
いや、その定義おかしいだろ。
たんなる言い換えじゃなくて曖昧になってたところについた名前だから普及したんじゃないの?
って俺は思ってた。
いや、違うだろ。それは「菓子をスイーツと呼ぶ」から派生した定義だ。
もともとは「菓子をスイーツと呼ぶ」だった。ていうかだから「スイーツ」なんだ。
それをそんなに広げすぎたからわけわからんことになってるんだよ。
女性誌つったって色々あるしマスメディアつったって色々あるっつーのに。
そもそもあれだろ、よく言うじゃん非モテの女性分類は「親類・彼女・その他」だって
昨日雨戸を閉めた時に入った虫が、俺の部屋で、ご機嫌そうに飛び回っている・・・・
暖房入れて加湿器つけた明るい部屋を気に入ったみたいだが残念だったな、お前がいる
お陰で「お前を餓死させよう計画」はすでに実行中!昨日電気付けっぱなしで雨戸を閉め
た俺の不注意により飛び込んできたお前と この部屋で同居するつもりはさらさらないからな!
普段食べかけの菓子袋をぞんざいに机の上に放置しているオレだが、今2重は丸めて輪ゴム止めてるし!
しかもそれを棚に仕舞う。お前にはもう手の届かない世界だ。フフ・・フフフフ・・・・
なのになんでお前生きてんだよ、しかも飛び回るほど元気ってどこで栄養蓄えた。
まあいい、日に日に弱りこの部屋のどこかで死にゆく運命のお前が唯一生き延びる方法、それは
雨戸を開けた時しかない訳だが、今日開けるの忘れたから一日損したね!他にも部屋のドアから
他の部屋に移ることも可能なのにお前はなんでここにとどまるんだよ、暖房つけたからか。
この日記を書いていたら目障りな虫の行方が分からなくなった。けどこの部屋にいるのは確かだ。
早く死ぬか脱出するかしてくれ。
数日いたんだけど、結構夜中暇だった
テレビも見ないし、自分の家じゃないから掃除もできんし本もないし、そうすると夜って結構暇なんだよね
テレビは時間泥棒だ、あんなもん見たって何になるわけでもなしとか思ってたが
ネットもそうなんだよな結局
ネットの場合、テレビより自分が主体となって積極的に見るものだから、余計に時間泥棒だって意識が芽生え難い上、テレビは時間がくれば終わるがネットはやろうと思えばいつまででも続けられてしまうため実はテレビよりも全然タチが悪い気がしてきた
とかいいつつこうやって増田を見てしまう自分
本当これって煙草並にヤバイ「中毒」だよな既に
そして暇な夜中にベッドに転がり考えてた
そもそも、これが普通だったんだよな、多分。
ここ10、20年くらい、人間が、異常に暇になれないだけで。
もともと人間もこうやって、夜なんてやることなかったんだろうな。
夜だろうがなんだろうがいつだっていくらでも時間が潰せていくらでも遊べるような今が異常なのかもな
まあだから、なんだかんだで今の日本って恵まれてるんじゃねーかと思った
あまりに皆になんでも供給されたが故に、かえって精神的に悩んじゃってるようなところがあるっていうかさ、今の日本は
夢を諦めたくないとかそういう苦悩とかもね、そもそもそうやって真剣に悩める時点で本当は恵まれてるんじゃねーかって思った
昔なんか夢を持つ事自体夢っていうか、そんな発想もきっと出てこなかったろうし
才能がないことで悩めるってのはさ、他のこと、たとえば練習することとか、そういうことは手を尽くしてしまった、あとは才能だけ、って境地まで至ったからこそ才能がないことで悩むわけで、そうすると「才能がない」ことで悩むというのは寧ろ恵まれてる証拠なんじゃないかとか、そういうことをチラホラ思った。才能あるとかないとか以前の問題だったわけで、昔は。
それにまあ今って、ネットが出来るってだけでかなりね、大抵のことができるわけだし。
三丁目の夕日の続編を見てみたんだけど、別に普通にいい映画だったけど、
あれを見て俺は「ああ、現代って幸せなんだな」と思った。
洗濯機とかさ。ローラーで乾かすものとかでてきて。もう超不便利なわけ。
子供たちもさ、菓子は駄菓子しかないし。そりゃ今も駄菓子食いたいときはあるけど「毎日それしかない」ってのは嫌だよね。今の日本の庶民お菓子はレベルがたけーわ、本当。昔は何か特別なイベントとか、特別な日とか、オシャレして出かける日とか、そんなの年に数度しかなかったんだろうけど今はその気になりゃ毎日でも可能なわけで。どっかで何かイベントやってるし、ネット上じゃ毎日刺激的なニュースやネタが流れ込む。今はありすぎるがゆえにそれが普通となって逆に無意味さを感じるとかそういうのなのかも
三丁目の夕日に出てくる芥川賞とりたがってる作家くずれとかね。別にああいうのも今だったら仕事しつつ趣味でネットで小説アップしたっていいわけだし。映画を見ることも、わざわざ「特別な事」としてえがかれてたけど今なんか子供だって普通の日に立ち寄れる。
おいしいものもネットで取り寄せたりとか出来ちゃうわけだし。ピザも電話でオッケー。
待ち合わせとかしなくても携帯でオッケー。
これが一部の人じゃなくて普通の人が出来てることなんだからね。
今って、結構いい時代だと、三丁目の夕日を見てつくづく思ったりしたわけで
だらだらと散文にもなってない呟きでした
まあなんであろうが一端便利さに慣れちまったらもう人間戻れんわ……
嫁ともども馬鹿な奴等だ。
何を必死になってるのか知らないけれども、優越感どうとかのはるか以前の問題として、いわゆる料理と菓子づくりは似て非なるもの、というのがいわば定説なんですよ。君も増田でわめく前に下調べでもすれば恥をかかずに済んだんじゃないかな。
そんなのメシ作るのだって鮭焼きすぎてケシズミにしたり煮物吹きこぼしたりするだろ。