はてなキーワード: 夢を与えるとは
http://anond.hatelabo.jp/20091108230020
最初にテーマとして、最近殺人事件多いよねーと思い、人を殺す理由みたいなものを考えた。
人間、追い詰められると思慮が狭くなる。どうして殺しちゃったのかなってニュースも多い。そう思ってまず書き出しを書いた。
男の名前はすぐ思いついた。だけど、与作につりあう女の名前がなかなか思いつかない。なんとなくイメージで元お天気キャスターの皆藤愛子さんを思い浮かべて、愛子とした。そうしたら逆に男の名前を変えたくなったけど、どうにもいまいちだったので、そのまま続けた。
それから「なんで愛子は帰ってこないんだ!」のところまで書いて、依然オチが思いつかない。ドアの向こうにいるのは、愛子でいいのか。それとも別の誰かか。
ここから第三者を出すのは面倒くさいのでたぶん愛子だろうということにして、与作の行動はどうすればいいのか。朝まで待たせる? ドアを開けさせる?
最初の書き出しのところを考えると、一度、与作の気持ちを変えさせる必要があるのかなと思って、与作の想定外の展開にするため、愛子にドアを開けさせる。
この時点でまだオチが思いつかない。
愛子が「わかってる」と言う、与作が訪ねてきた理由って何? 別れ話か? もっと別の話か? 愛子の性格も全然考えてないので、どうとでもなりそう。
この辺で、愛子に「酷い」って言わせたくなった。
だから愛子が「酷い」って言いそうな展開に持っていく。愛子が「酷い」って言ったところでオレの気持ちは満足した。
別に最後、愛子は殺されたなくなって良かったんだ。子供はおろしてないことにしてもよかった。二人は幸せになってもよかった。だけど、早くオチをつけたかったオレの都合で、そういうことになった。
とまあ、ずいぶん行き当たりばったり。でも、今回の話は、オレは気に入ってる。いろいろ考えすぎると気に入った文が書けないことが多い。
こんなんじゃ長文は書けそうもないのかなとは思うけど。
本当は、オレはハリーポッターみたいな児童文学が好きなんだよね。だから、いつか子供に夢を与えるような話が書きたいなって思ってるんだ。
H-2Bが成功したっていうのに、NHKですら、7時のニュースでも報道しなかった。
せっかく買った地デジ対応チューナーもあるのに、実況中継はネットで200kbpsだった。
なにかがおかしいと思う。
これはみんなが喜ぶべきことじゃないのか
日本ががんばってるんだ!って思える一面じゃないのか
それとも、世界が辛い時期だから、うれしいニュースはやっちゃだめ?
うつむいて、辛そうにして、お金とか政治とかそういうことだけ考えてなきゃだめ?
どうして、最先端でがんばってる人達を映さないで「理系離れ」って言うんだ
将来なにになりたいの?って聞くと「公務員」 「適当」「別に何も」
プロ野球選手とかもいない。目の前にあるような、もしくは夢ですらないような
そんな答えしか返ってこない。
そう言うと、少し哀れんだ目で見られる。正直ツライ。
僕が生まれたときも。バブルがはじけて少し経って、どうしようもない状態だった。
「みらい」なんていうのは真っ黒で、「高望みはしない」そう教育された。
戦後復興で夢を与えたような「東京タワー」も「新幹線」も僕たちにはなかった。
近所のおじさんが「ほら、あれがすべーすしゃとるだよ」と教えてくれた。
自分の中でなにかに火がついた。あそこへ行きたいと思った。
もう少し大きくなって、ネットが使えるようになって、狂ったようにそういうことばかり調べた
新聞やテレビにはなかった「火をつける」ような情報が山のようにあった。
夢を与えるものが「ない」んじゃなくて「見えない」ようになってるんだ、そう気が付いた。
来年、スペースシャトルが退役する。人生の第一章が終わるような気分。
その子供たちが、もっとすごい物を作ってくれるかな?
多くの人に、どんな形でもいいから火がついてほしい。
世界を変える、そんな気持ちで生きてほしい。
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元増田。エウレカセブン見ながら、てきとーに思ったことをかいただけなのに、割と反応があって驚いた。元の記事ではちょっと表現がぶっ飛んでいたので申し訳ないが、自分の言いたかったことは別に大したことじゃなくて、一言で言うなら「夢とか希望とかうぜー。そんなもの下手に与えないほうがいいよ。与える方が残酷だ。」ってことになるんだと思う。
>2008年12月29日langu 主人公の気持ちで世界が変わるのはセカイ系であってSFではないでしょう
うん、これは、とてもいい指摘だと思う。エウレカセブンって、まぁ、一応広義にはSFに含まれるのかもしれないけど、少なくとも絶対ハードSFではないわなぁ。なんか、エウレカセブンってなんて表現したらいいのかわかんなかったけど、やっぱり「セカイ系」でいいのか。一応、少しはハードSFも読んでるよ。2001年宇宙の旅も3001年終局への旅も読んでるし、映画コンタクトは5回以上は見ていると思う。
もうちょっと正確に書いたら、以下のようになった。
「一見SFのように見える作品の中には登場人物の気持ちで問題が解決するような話があるが、『気持ちで問題が解決する/世界が変わる』というのは科学とは全く相反するものだ」
「実際には、いくら問題に対して熱い気持ちを持っていようが、才能と金と環境がないとどうしようもないことが多い」
「結局、才能や金や環境に恵まれた人間だけが、科学で食っていける」
「しかし、いくら才能や金や環境が羨ましくて嫉妬しても、実証的(論理的)に正しいものは正しいと認めなければならないのが、科学だ」
(他の競争、例えばスポーツとか芸術作品の良し悪しだったら、審査基準を作っているのは人間だから、嫉妬した時は審査基準そのものを疑って新しい審査基準を作ってしまえばいい。科学というか、実証的な学問は、最終的な判断基準が人間の外にある。人の羨望や嫉妬など関係なく、実証性でかっ飛ばしていくのが科学だ。)
「これから進路を決める子供たちに、『気持ちで世界が変わる』と誤解させるかのような話を見せる/聞かせるのは酷だ。
科学が好きだとか、科学者になりたいとか、科学に対する熱意とか、そんなものは、科学には全く関係がない。
何も科学に限ったことじゃないが、熱意があっても、才能や金や環境に恵まれなければ、成果が出ないのが普通だ。
「だいたい、そうめったにない成功例を多数の視聴者に見せるということ自体が、宝くじに当たるような確率の成功例を『普通に起こりえる』ように描いていてリアルでない。実証的でない。主人公が流れ弾に当たって死亡して終わりとか、時間内に修理しようと思ったけど納期に間に合いませんでしたとか、長期にわたる戦闘で精神的に不安定になって戦闘後に自殺するとか、味方の誤爆で死んじゃいましたとか、同じ舞台設定であるにしても、もっと『起こりそうなこと』を描いてほしいと思うのが、リアルさや実証性を重視する心だと思う」
僕には、みんなが普通に生活を送っていることが
ときどき、とても不思議に感じられる。
人はいつか死ぬ。
当たり前のことだけれど、
しかしゆるぎない真実であって、
これが僕にはひどく恐ろしい。
死の痛みは怖くない。
怖いけれど、僕が本当に怖いのは永遠だ。
みんなにプレゼントを配っていた、やさしい老人だった。
やがて、サンタクロースは天寿を全うして死んでしまう。
神々は会議を開いた。
老人のような神、黒い山羊の姿をした神がいたのを覚えている。
神々は話し合う。
私たちから見れば、人間の一生はあっという間だ。
しかしサンタクロースをこのまま死なせるのは忍びない。
かくしてサンタクロースは生き返り
おしまい。
僕はこの物語を見て、「死」というものを理解した。
自分がいつか消えてしまうということを知って、
その夜、枕を涙で濡らした。
小学校高学年になって、手塚治虫の「火の鳥 宇宙編」を読んだ。
乗組員それぞれが一人乗りの船に乗って、脱出するというくだりがある。
そして、その中の一人は、軌道がかすかにずれてしまい、
みんなと一緒の方向に行けず、宇宙の果てまで孤独に流れていくこととなる。
別の一人は、惑星の引力に捉えられてしまい、永遠にその星の周りを周ることになる。
マンガとはいえ、「永遠」というものを肌で感じられたような気がした。
永遠ってなんだ。
永遠とは「終わらないこと」だ。
つまり、死んだ後も、その状態は終わらないということ。
永遠に続くということだ。
永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に、永遠に・・・
死に続ける。
死ぬということは、消えるということはそういうことなのだ。
そして、永遠の命を得ようとも、
幽霊になったりしようとも、
輪廻を繰り返そうとも、
永遠からは逃れられない。
それからは、そのことを忘れるように努めた。
思春期、ときどき授業中などに思いだしては、身を震わせて恐怖した。
そしてすぐに頭から振り払った。
まともに考えていては、頭が狂ってしまいそうだった。
そうしたまま、逃げ続けて現在に至るのだけれど、
今でもまだ夜中に恐怖にかられることがある。
どうしてみんな、普通に生活していられるんだろう。
たしかにどうしようもないことだ。
だけれど、このことについて語る人はあまりにも少ないし、
誰もあがこうとしていないように見える。
みんな、僕のように逃げ続けているのだろうか。
それとも、折り合いを付けているんだろうか。
僕には到底マネできない。
横文字にするとなんだかカッコイイですよね。
世の中で特別な存在なのだと思っていた時期がありました。
常に新しい価値観を生み出し続け、
皆があっと驚くようなアイデアを見せ、
自分の作り出すものが凄ければ、
センスを研ぎ澄まし、
常に圧倒するような完璧な物を作り続け、
自分が納得のいく所までこだわり、
自分の力と作った物で皆を動かさねばいけないと
思っていた時期もありました。
自分はデザインだけを考え、
デザインだけに集中し、
デザイン以外の事を行うのは悪と考えていた時期もありました。
そんな考えも、今思えば非常に恥ずかしく、
もし、タイムマシンがあれば、
過去へ行き、そんな自分に酒でもオゴりつつ、
色々と、ゆっくりと話をしてあげたいと思うようになりました。
なんだかんだで、僕はプロとしてデザインでお金を貰い始めてから
6年ほど経ちました。
まだまだ視野は狭いとは思いますが、
それでも、上に書いたような事を考えていた時よりは、
よく物事が見えるようになってきたかなと思っております。
久しぶりに深夜にテレビを見ていると、
素晴らしいデザインの製品やアイデアなどが取り上げられていました。
画面の中のはなちゃんは、興味深そうに製品にコメントをしていました。
でも、僕はあまり興味を感じることは出来ませんでした。
リアルさというのが感じないというのか、なんというのか、
非常に奇妙な感じがしました。
こんなものは自分の好みもあるのかもしれないので、
偉そうなことは言えませんが…。
僕は仕事に対しての考えのひとつに、
という妙な意識を持っています。
そもそも「仕事」って何でしょうね?
僕は、仕事というのは、必要とされているものに対してサービスを行い、
その代価として報酬を頂くものだと考えております。
それは人間が相手であったり、世の中が相手であったり、環境だったり。
報酬というのも、お金であったり、スキルであったり、経験だったり。
求められている事に最大限に応えてあげる。
そんな事だと思うんですよね。
相手が何を求めているか、何に困っているのか、何を知りたいのか、
そして何を伝え、何を形にしたいのか。
この「何を伝え、何を形にしたいのか」、
という要望に対して、クライアントや、
最大限のサービスで応えてあげているんだなぁ、
と思うようになりました。
クライアントの伝えたい意図をどうやって伝えるか?
今は、デザインというのはあくまでも手段。
自分の手持ちの武器のひとつと考えるようになりました。
案件次第ではデザインをしない時もあります。
その方が妥当だなと思うからです。
でも、それで仕事がまわり、
クライアントも満足し、
お客様も喜び、
世の中がちょっとでも良くなれば、
それでいいんじゃないかと今は思っています。
そう考えると非常に気楽というか、
変なプレッシャーというのが無くなった感じがして、
非常に精神的にも肉体的も楽になり、
非常にこのあたりの意識があいまいです。
アートとビジネスの狭間を行ったり来たりするからだと思いますが。
だからと言って、日頃のデザインのセンスや力を養わない、
ということでもありません。
必要な時に期待に応えられないようでは、プロではありません。
でもこういう考えって、
飲食関連等に代表されるようなサービス業と言われるものだったり、
みんな同じ考え方だと思うんですよね。
相手に対して最大限のサービスを行い、満足をしてもらう。
満足をしてもらうには自分には何ができるのか?
演出したり、根回ししたりしてスムーズに流してあげる。
もしくは情報自体を考えてあげる。
というようなサービスを行っている気がしますね。
これもあの番組のせい…、なのかな?
この日記も10年後の自分が見たら、
きっと恥ずかしいと思うのでしょうね。
あ、最後に、コミュニケーションスキルと対人術と会話術。
それと相手に対する思いやりと愛みたいなものと義理人情。
これが仕事で何よりも大事なものだと思いますわ。
ふたりはプリキュアSplashStarが最終回を迎えた。
シリーズ自体は「Yes!プリキュア5」という続編によって粛々と続いていく。だが、これはプリキュアの続編ではあっても「ふたりはプリキュア」の続編ではない。
実際には、「??MaxHeart」ではシャイニールミナス、「??SplashStar」では満と薫というプリキュアの共闘者が存在したが、彼女たちはあくまでも道を同じくするものであり、プリキュアでは無い。
プリキュアの基本フォーマットは3年間一定していた。静と動、理と情、白と黒、対なる要素のものが手を合わせることで完全になる。これは戦隊ものとよばれるジャンルと同じテーマだが、人数を2人に絞り込むことで両者の関係性とその描写はより深くなる。ある種の趣向を持つ人にはそれが己の妄想をかき立てる方向へと作用したようだが、実際のところプリキュアの2人の関係性はそう言った段階の斜め上へ行っていると思う(納得のいかない百合厨は雪空のともだちを借りて10回観ろ)。むしろ近いのはウルトラマンエースの初期における2人の変身者(北斗と南)だろう。テーマの本質を考えればプリキュアも男女2人組であるべきだと思うが、その辺は大人の事情と時代というものなのだろうか。
もう一つは、未来と若さの楽観的全肯定である。基本的にプリキュアの敵は年齢不詳ながら彼女たちよりも年長者であり(従って、同世代の敵であるキリヤ、満・薫、ひかるなどは通常の敵とは異なったストーリーが与えられた)、その理屈はむしろプリキュアのそれよりある面で筋が通っている。そしてSplashStar最終回においてボスの真の目的が宇宙を創世以前の無に返すことであると彼の口から語られた通り、敵の目的は本質的に過去への回帰、そして永続化である。それに対して彼女たちは「絶対に」抵抗する。このキーワードは3年間を通じて登場しており(SplashStarにおいてはやや乱用された感があるものの)、プリキュアを象徴するキーワードの一つと言っていい。そもそもが「絶対」という言葉自体が若さ、無思慮の象徴のようなもので(絶対なんてことがあると思っていられるのは若さ故である、というのを否定出来るのは若者だけだ)、事実彼女たちが「絶対に」に続けて発するのは理屈の通らない、ある種のわがままである。しかし、このキーワードに呼応するかのごとく超常的なパワーが発生してプリキュアが勝利を収めるのがプリキュアの世界の「お約束」になっている。
もちろん、これはプリキュアが子ども向け番組である、ということが主原因であるといえる。だが、子ども向けだからといって、いや子ども向けだからこそ正しく世界のあり方(すなわち、全てが思う通りにはいかない、未来より美しい過去はある、つまるところ「絶対」は無い)を伝えるべきではないだろうか。そして、そんなことは長らく子ども番組に携わってきたスタッフには承知のことだろうと思う。では、何故彼らはあえて「子どもの理屈」を全肯定するような作品を作ったのか。
現在の世の中は子どもが子どもの理屈を大らかに信奉できる状況とは言いがたい。本来ならゆるやかに「現実」を知って大人になっていく子どもたちが、無理やりに現実を見せ付けられて否応なしに大人にされていく時代だ。それはフィクションの世界においても大差なく、少年向けとされているジャンルの作品さえもが主人公が自身の存在に苦悩し、大人の理屈に屈することが少なくない。そんな中で、プリキュアの健康的なまでの屈託の無さは貴重だった(このあたり、比較されることの多いセーラームーンシリーズとは一線を画していると思う)。もちろん、「現実」を直視しなくて良いわけではない。だけど、その前に夢を見てもよいのではないか。プリキュアが3年間繰り返してきたのは、子どもが夢を見るきっかけを与えてあげることだったのではないか。
一つ目の対比と強調のフォーマットは、より戦隊に近く多層的なものになっていくだろう。そして二つ目の子どもに夢を与えるというテーマが、どのように引き継がれるか(あるいは引き継がれないか)はもはや本放送が始まるまで分からない。なんにせよ、Yes!プリキュア5をふたりはプリキュアの続編、として見てしまうことは両方の作品にとって不幸なことのように思える。新しい日曜朝のアニメ番組として、落ち着いて鑑賞したい。