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2008-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20080718074339

労働力使い捨てにするのは短期的には人件費を抑えられるが、長期的には技術やノウハウが蓄積できず、企業にとってマイナスになるかもしれない。

「そうか!それならその『技術』や『ノウハウ』をマニュアルし、システムしてしまえばおk」……

と多くの経営者は考えてる。

マニュアル化できなかったり、システム化できないような部分は損益計算に入らない。嫌われる。

「○○さんがいなくなったから仕事が回りません、じゃ困るだろ」というのが彼等の言い分。

そりゃそうなんだよね。

『シホンシュギの社会では、近代的で合理的で均質なサービスを24時間まんべんなく配分できるよう心掛けております。』

確かに増田の言う「今の企業は何をするにも短期的なスパンでのリターンしか考えていないみたいだ。投資するのも、本来の「将来性に期待」というのがなくなって、勝ち馬に乗るようなのが増えてきたような。」…って傾向のせいで、上の傾向は更に加速しているような気はする。

そういうわけで、卓越した仕事能力(『ザ・職人』的な)を目指す人間はこの社会問題児、さっさとシホンシュギ教に改宗するか、カウンセリング屋逝け、ということになってるよーだ。

http://anond.hatelabo.jp/20080718073352

労働力使い捨てにするのは短期的には人件費を抑えられるが、長期的には技術やノウハウが蓄積できず、企業にとってマイナスになるかもしれない。

しかし、今の企業は何をするにも短期的なスパンでのリターンしか考えていないみたいだ。

投資するのも、本来の「将来性に期待」というのがなくなって、勝ち馬に乗るようなのが増えてきたような。

2008-05-03

生きているのがめんどうだ

まったくなんてやつだ人生は。結局勝ち馬に乗ったやつが勝つゲームじゃねえか。僕は今日も布団にくるまってそう呟いた。だから成功するか、しないかなんて確率なんだ。よって、僕はここから動かなくてもいい。布団のなかはとてもあたたかで、やわらかくて、僕の汗の臭いがする。もういい加減干さなきゃだめだろう。しかもそろそろ布団を薄くしなきゃならない季節だ。面倒すぎて気がめいる。時間なんか止まっちまえばいいのに。

携帯メールを見る。

新着メールは来ていない。就活で出合った岡山女の子と先ほどまでメールをしていた。しかし、もう返ってこなくなった。だいたいからして口説く気がまんまんに満ち満ちたメールを返してくるほど今の女子は暇ではない。ま、今までがラッキーだったということで。

とりあえず言い訳をして、僕はテレビの電源を入れた。DVDの電源もつけて、いつものようにCUBE映画を見る。もう何回も見ているから、内容は諳んじている。僕はこの映画が好きだ。現在社会で生きている僕らの人生はこの映画と同じような状況だと思う。その中であがく彼らを見るのが好きだ。そして、どうにもならない結末だからこそ、余計リアルだ。

淡々と進む映画を見ていると、いつも僕は自分が皮肉屋で、動きたがらない登場人物、ワースになったような気分になる。こいつの気持ちがすごくよくわかる。初めて見たときはすごくいらいらした。知識持ってんだから動けよ馬鹿、と言いたい気分にもなった。しかし、バカでっかいCUBEみたいなこの社会では、こいつの立ち位置が一番楽なんだ。誰にも迷惑をかけない確率が高いからだ。女の子に後ろから笑われることもない。グループディスカッションで誰かの足をひっぱることも、ひっぱられることもない。だから役員面接で緊張と圧迫でボロクソに評価されることだってない。学校で「イラっとする」と陰口を叩かれ、うざいやつという烙印を押されることもない。布団は本当に暖かい

携帯の自分のメールを確認する。

未練がましいやつだな、と自分でも笑う。メールタイトルをちゃんと消せているかを確認する。ふと、昔の彼女を思い出す。Re:とかついてると何故か怒り出したっけな。僕にはいまだになんで消さなきゃいけないのかわからない。本文を読んでいると、つとめてやる気をださないようにしている僕の努力がよく見て取れた。たしか考えたテキストの量はこの三倍にはくだらないと思う。書いては消し、書いては消しでようやくできたこの結晶には、やっぱり不備が残っていた。東京に出てきたら云々、って書いちゃった。ダメねー、あたし。こうなっちゃうとだめね。

岡山の女子から送られてきたメールを見る。絵文字がとても可愛い。実際はもっと端正な顔をしているのに。じゃけん、とか時々標準語のガードからすりぬけて出てくるそんな言葉イントネーションにすごく悶えさせられた。でも、そのあとの恥ずかしい表情がもっと可愛いんだ。だけど、メールはもう返ってこない。

きめぇな、自分…

自分で呟いた。画面では、クエンティンが独善性を発揮している。いいぞ、もっとやれ。お前みたいなのがいてこそ世界は回るんだ。セリフ口パクと同期させて発音してみた。数度やって、疲れた。なんで俺はこんな何回も見たDVDなんか見てるんだ?やり場のない怒りは、脳内環境と化した登場人物たちに向くことはなく、ただ自分のなかの焦燥感に変換されただけだった。布団のあたたかさがじれったい。だが、僕はもっとそれにくるまった。露出した足に布団をたぐりよせ…

どうやら、眠っていたようだ。何分ぐらい寝たのかな?画面を見ると、クエンティンがいないぐらいなので、そんなに眠っていたわけじゃないだろう。佳境ってやつか。見すぎてなんとも思わないけれど。焦燥感はまだ残っている。腕の付け根あたりがうずうずしているのがわかる。動悸を感じれば感じるほどそれは早くなっていく。生きているのは面倒だ。僕みたいな馬鹿はうごかないほうがいいんだ。そう、ちょっと前までのワースのように。この売り手市場で、内定が出ないのは僕が馬鹿だっていう証明じゃないか。そう誰かも言ってたのを聞いた。バイト先だったかな?…それからのバイトは全部ブチった。電話も無視。だいたい、今の時間に動いたって何にもできないだろう?あたりを見る。夜だ。もうそろそろDVDも終わる時間だな。

ふと足元で、何かが青色に光るのを見た。なんだろ?

携帯が落ちていた。これってことは。拾い上げて、ボタンを押す。メールが来ていた。サイレントにしてたんだな。

どうせリクナビか、マイナビか、フルキャストだろう。

そう思ってメールを開く。

岡山の、彼女からだった。

そのメールの内容はよく覚えていない。ちょっと前のことなのに。ただ、東京に出るときに絶対連絡します!って内容と、ハートマークの絵文字がふたつ入っていたことは覚えている。あと、もしかしたらGW明けに本社面接が入るかも、って書いていてくれたのも覚えてる。なんとなく、年甲斐もなく嬉しくなった。もう充分に僕は諦めていた。今までのことすらラッキーだったと、本当に諦めていたのだ。それが、こんな形で、彼女が、僕に、返信してくれるなんて。何故か涙が出そうだった。馬鹿みたいだってことはわかってる。だけど、胸が一杯になって、ありがとうって気持ちすらわいてきた。GW明け、か。どきどきする。わくわくもする。テレビの画面をふっと見た。ワースがレブンの手を握ったところだった。ワースが立ち上がろうとするシーンだ。手を、握ったんだ。死ぬな。死ぬな。何度も見ている映画のシーンなのに、記憶が出るのが一瞬遅れた。その一瞬ののち、あのシーンが、あの顔が、この液晶画面いっぱいに…。僕は、目を瞑っていた。はじめてのことだった。今は、ワースには殺されて欲しくはなかった。そう、今は。レブンにも、殺されて欲しくはなかった。ちらっと、やる夫のように、片目をうっすらと開いたとき、写っていたのは

カザンの、そう、脱出のシーン。

光り輝いている世界に。そして美しい世界に。

嫌いだったこのラストが、今は、ちょっとだけ、わかるような気がするなぁ、と思えた。理解なんかじゃなかった。同意の写像に近いものだった。

だけど。だけど。僕は少しだけ今日は思う。どんな人間でも、どんな馬鹿でも、一歩を踏みしめて歩きだすことは、このようなものなのかもしれない。

神々しい光に満ちて、まだ見ぬ未来が待っているような。

気がつけば僕は親しんだ布団から這い出て、メールの返信を頭の中で妄想しながら、パソコンの前に座ってGW明けに着ていく服を探している。今着れるのはボロボロの茶色いパーカしかないから、それじゃ不釣合いだろう。まだ見ぬ未来ってやつには。

2008-04-11

http://anond.hatelabo.jp/20080410232135

これがモテ非モテの格差というやつなのか。

特定の女を落とすためのアドバイスを「全ての女に」対してやれと言われたと解釈して反発していたわけなのか。端から見ていて、なんでそこまで反発するのか、何故そんなことが女尊男卑になるのか不思議だったけど、謎が解けた気がする。

逆に非モテにとってみれば、それが一番難しいところなんだよ。特に「わけへだてのない男はいい男」なんてことも言われてるわけで、「私だけ特別扱い」ってのはむしろ嫌われる最悪手にしか見えないんだから。惚れた弱みというやつで、「俺の惚れた女が、そんな小手先の小細工に引っかかってたまるか」と相手を崇拝しすぎてるのも一つの原因だね。

だから例えば非モテは、たとえば合コンの場で全ての女性と均等に話そうとして誰の興味も惹くことができないという自滅を繰り返す。

そんな極端なと言われるかも知れないけど、合コンじゃなくて学生サークルだったらそういう奴はいくらでもいるでしょ。新歓なんかで、チヤホヤされてるかわいい女の子をあえて放置して、場の中心に入れない人に孤軍奮闘で頑張って話しかける。でも、そういう人はたいてい入部しないから、その努力は労多くして益なし。むしろ、本人が新入生を含めた人間関係の中からハブられてしまうだけ、大損なのに。自分が非コミュだけに非コミュに同情して情を寄せてしまうわけだけど、実際は非コミュな新入生もコミュな先輩の方になつくから、非モテ非コミュな後輩からも敬遠されてしまうわけだ。ちなみにこの場合、相手は男女関係ないよ。

この話は実は全部俺のことだ。そして、「コミュニケーション能力とは、非コミュ華麗にスルーして勝ち馬に乗る能力である」という非情な世間の法則を俺がようやく学習した頃には俺はもう卒業で、男ばっかりの業界就職が決まってからのことだったのですよ。

2007-09-15

http://anond.hatelabo.jp/20070915202123

批判してるところもあったと思うけど、昔と違って対立候補立てる度胸もなく勝ち馬に乗りたがるへたれ派閥ばかりじゃたたき甲斐がないのかも。あと福田安倍路線と距離置いてきたから安倍批判しまくってたメディアは批判しにくいのでは?小泉は改革骨抜きと批判してたのに抵抗勢力追い出して選挙したのを批判しにくかったのと似たようなものかも。

2007-05-01

http://anond.hatelabo.jp/20070501142230

そもそも、エンタメ至上主義って完全に肯定されてる訳じゃないと思うが。だからこそ、こういう議論が起こるんだと。エンタメ至上主義者の「数」は多いと思いのは確かだと思うが、でも世間には何となく「批評家の方が偉い」という空気も同時に存在している。だから「エンタメ至上主義だし、批評的な見方なんてべつにエラくねーよ」的な意見が出てくる。「楽しければいいよ」もしくは「批評できる人ってエラい」という意見は今の日本で何となく肯定されているけど、「楽しければいいし、それが批評的な見方より劣ってるとも思わない」という意見はまだマイナーめ。動機はそこである気がする。

数が多けりゃ十分じゃん。

だから元の増田エントリで「市場によって肯定されているものをさらに言論によっても肯定しようとする、その動機とはなんぞや」って先に書いてるのよ。

作品が売れていて、儲けが出ていてるんだから、市場の流れとして「エンタメ」の新作が作られなくなることはないし、制作費も必要十分に割かれる。新しい作り手もきちんと登場するでしょう。そこに言論の必要なんかないのに、なんでいちいち「エンタメ」を言論で肯定せにゃならんの。だから、

気持ちは分かるけども、でもそういう事を言いだすと、初めのエントリも何とでもいえてしまう。

これは「何とでもいえ」ません。市場で負けているサイドがそこに別の評価軸を持ち込もうとすることには必然性があるけれど、市場において評価されている作品をさらに評価する軸をことさらに設ける必要なんてないでしょ。

それと同じく、本当にそうだと思う人は、黙って自分だけ知的鑑賞をしていればいいんだよな。それなのに、わざわざ攻撃的な物言いで書き込むってのは、本当は自分の中で揺らいでいるから、それを他人に「そうなんだよ」って認めてもらって安心したいだけなんじゃないの?

これもくりかえし。知的鑑賞派は黙ってりゃ市場が縮小していくばかりなので、折を見て宣伝・広報をする必要があんの。一方、感情的消費は放置しておいてもどんどん広まっていくの(前提がいらない表現だからね)。自意識問題じゃなくて市場の問題なの。

だから「知的鑑賞の方がエラいに決まってるんだぜ!」と言ってる奴も、もしかしたら「消費側」なのかもしれないんだよなー。そうであっても、同じような意見、言えるんかな。それこそ、「自分が知的鑑賞サイドに属してるから、強い事が言える」という、勝ち馬に乗っかっちゃってるだけなんじゃないのか、と。たまたま自分が鑑賞サイドにいると「思える」事を強みに、言っちゃってるだけなんちゃうんか、と。まあ、そこはどうだっていいんだが。

自分が「鑑賞」サイドにいると思っている人間が間違っていたとして、それは指摘されたら直せばいいだけの話じゃん。そんだけのことよ。間違いだと思ったら謙虚に受け入れる姿勢があれば、間違えることなんか何も恐れることではない。間違ってたからといって人が死ぬわけじゃなし(かといって無責任に放言しては知的誠実さに欠けるけど)。

感情的消費は本当に完全に受動的なのか、ってのも疑問だし、

理解するための特別な努力もなく理解できるのが「感情的消費」だそうなので、それは「受動的」じゃないかしらね。

なぜ「エラいか、エラくないか」、言ってみれば「俺の方がエラいか、そうでないか」な対立にしたがるのか。

先のレスと重複。

大体、「頑張ってる奴の方が頑張ってない奴よりエラい」→それは場合と時による。大体の場合当てはまる、というだけに過ぎないし「能動的な態度エラい」にいたっては初耳だ。

絶対この反論は出ると思ってた。「時と場合による」と思ってるから「大前提」と書いたんだけどね。書き方が悪かったね。申し訳ない。頭に「原則」と補足してもいいや。

しかしまあ、「能動的な態度エラい」っつーのは撤回しないけど。「頼んでもいないのに押しかけてくるのも能動的だからオッケーかい?」っていうケースは、原則として「能動的なのがオッケー」とされているから、押しかけてくるやつに自分が迷惑していることを伝えるのが大変なんでしょ、と。能動的な態度リスペクトされない社会だったら、押しかけるも何も能動的に動いた瞬間にそいつキ○ガイ扱いじゃん。

個人的には、エラかろうがエラくなかろうがどうだっていいし、そもそも自分の見方がどっちサイドかすらよくわかんね。皆すげえなと思うばかりさ。

そう本当に思うんなら慎み深く黙っといたほうがいいんじゃないかな。本当はこんな風に思ってないくせに。「エラかろうがエラくなかろうがどうだっていい」と思っている俺ってクールだぜ、と高みに自分を置いた気になって正面から意見表明すんの避けて傷つくのを避けてんだよ。そのくせ自己顕示欲はあんの。自分の欲望は素直に認めて対処したほうがいいと思うけど。

http://anond.hatelabo.jp/20070501113314

ハリウッド映画的な価値観が全面化している世の中で

まだまだハリウッド映画的な文脈自由なエンタメ至上主義の価値観を追認しようとする、その動機ってのは一体なんなんでしょね。

そもそも、エンタメ至上主義って完全に肯定されてる訳じゃないと思うが。だからこそ、こういう議論が起こるんだと。エンタメ至上主義者の「数」は多いと思いのは確かだと思うが、でも世間には何となく「批評家の方が偉い」という空気も同時に存在している。だから「エンタメ至上主義だし、批評的な見方なんてべつにエラくねーよ」的な意見が出てくる。「楽しければいいよ」もしくは「批評できる人ってエラい」という意見は今の日本で何となく肯定されているけど、「楽しければいいし、それが批評的な見方より劣ってるとも思わない」という意見はまだマイナーめ。動機はそこである気がする。

もしくは、本当にエンタメ至上主義が世間で完全に肯定されていて、「楽しければいいよ。それに別に批評的な見方なんてエラくないよ」が多数派だとするなら、『こんなにその意見が世間に知れ渡り認知されたというのに、未だ少数の自称知的人が「批評の方がエラいもんね」と言っている事が、単純に「鬱陶しい」』のかもしれない。『いい加減認めろよ、これだけ知れ渡って認められたんだから。いつまでもそれを認めずあがいてんじゃねえよ』っていう感じの。

というか、人は他人の「自分は他の人より上だよ」的主張は、どれだけそれがアホらしくてマイナーであっても大概ムカつくものだから、そこまで掘り下げなくても動機はそれで十分な気がする。目の前で、「俺批評的な目で見れる人間だから。お前ら消費するだけの凡人と違ってさー」などといわれたらそれがどれだけ世間でマイナーだろうがなんだろうが、「は?ふざけんな」という反応になるのは動機云々語らなくても至極当然な反応。それも炎上しやすいネット上だしな。

もう少し話を進めるなら、馬鹿にされてムキになってキレるやつ、必死で反論するやつって、「知的鑑賞」に憧れてる人だよね。憧れてても届かないから「知的鑑賞のできるやつがそんなにエラいのかよムキー!!」って怒るの。


気持ちは分かるけども、でもそういう事を言いだすと、初めのエントリも何とでもいえてしまう。

何も誰も言っていないのに、突然「鑑賞の方が消費より上だよ?上なんだよ?消費してる連中多いけど、鑑賞の方が上なんだよ?」とか言い出すのは、結局皆に、そうだって認めて欲しい、「うん、おまえは知能の高い見方をしているんだね。エラい人なんだね」と言ってもらいたい、という欲求からきてるだけなんちゃうの、と言われてもしょうがない事になる。本来の鑑賞が消費がは実はどうだってよくて、単に「俺はエラいだろ?」アピールに過ぎないのでは、ということになりかねん。

まったく興味がないひとは黙々と「感情的消費」に勤しんでるもんでしょ。


それと同じく、本当にそうだと思う人は、黙って自分だけ知的鑑賞をしていればいいんだよな。それなのに、わざわざ攻撃的な物言いで書き込むってのは、本当は自分の中で揺らいでいるから、それを他人に「そうなんだよ」って認めてもらって安心したいだけなんじゃないの?……って別にそんな事思ってはいないけど、そういう風にどうだって言えてしまう。だから、変に一つの主張から他人の心情を考え出す、というかほとんど想像妄想捏造しだす、ってのはどうかと思うのだ。そんないらんことしても逆に議論で不利になるだけだし、損だ。

あとこの手の議論で思うのは、そもそもその「鑑賞」と「消費」の定義がなされてなくね?ってことだ。それは鑑賞じゃなくて感想とか言ったりするけども、じゃあそれ誰が判定してんの?っていう。実際、「俺は知的鑑賞側にいる」と思っているような「自称批評家」さんは日本人に凄く多いけど、でもその人たち皆が本当に「知的鑑賞」が出来ているわけじゃないのは自明だし。当たり前のように皆分けているが、俺にはその境界線はいまいち分からん。仮に境界線があったとしても、実際には、その境界線付近をうろうろするグレーゾーンが一番多いだろう。例えば「楽しかったよ」だけじゃなく、「こういうところが、やっぱあのアニメ監督だからどーのこーの」と付け加えれば、知的鑑賞になるんだろうか?でも、実の所、「一見わかってる風」の「なんちゃって批評」を書くのは、たいした労力じゃないんだよ。今なんて、ある程度の知識ならちゃちゃっと手に入るし、それを元に「それっぽい」事を言ってみるのは、別に難しく無い作業。でもそれが「それっぽいだけ」か、「本当の批評」なのか、誰が、どうやって見分けるんだ?それとも、「それっぽい」のでも知的鑑賞の仲間入り?本当は表面だけの知識で背伸びして通ぶってるだけ、そんな文章でも、知的鑑賞に入れるのだろうか?どんなに的外れであってもいいんだろうか?うーん。わからん。

だから「知的鑑賞の方がエラいに決まってるんだぜ!」と言ってる奴も、もしかしたら「消費側」なのかもしれないんだよなー。そうであっても、同じような意見、言えるんかな。それこそ、「自分が知的鑑賞サイドに属してるから、強い事が言える」という、勝ち馬に乗っかっちゃってるだけなんじゃないのか、と。たまたま自分が鑑賞サイドにいると「思える」事を強みに、言っちゃってるだけなんちゃうんか、と。まあ、そこはどうだっていいんだが。

エラいよ。ボーっとしてても感じとれる受動的な「感情的消費」よりも、能動的な要素が関連する「知的鑑賞」の方がエラい。なぜなら能動的な態度エラいから。「頑張っている奴の方が頑張ってない奴よりエラい」ってのは近代以降の社会大前提でしょ?

感情的消費は本当に完全に受動的なのか、ってのも疑問だし、そもそも「エラい」って何なんだ、と思う。仮に消費と鑑賞が分けられたとしても、どちらがエラいという問題ではなく別ベクトル楽しみ方、楽しみ方の種類に過ぎないのではないかと思うんだが、なぜ「エラいか、エラくないか」、言ってみれば「俺の方がエラいか、そうでないか」な対立にしたがるのか。ここまで来ると、いよいよ本格的に「俺はエラいんだ、そうだろう?」と認められたがっているだけなんじゃねーのかと思えてくる。大体、「頑張ってる奴の方が頑張ってない奴よりエラい」→それは場合と時による。大体の場合当てはまる、というだけに過ぎないし「能動的な態度エラい」にいたっては初耳だ。おいおい、頼んでもいないのに押しかけてくるのも能動的だからオッケーかい?そうじゃないだろう、そういうのは全てケースバイケースにすぎない。流石にそんなに社会は単純じゃないよ。てか、それだけ単純なら楽だよなー。近代以降の社会は寧ろ、多様な価値観にもまれまくりでどんどん複雑化しているんじゃないっすかね。

個人的には、エラかろうがエラくなかろうがどうだっていいし、そもそも自分の見方がどっちサイドかすらよくわかんね。皆すげえなと思うばかりさ。

ハリウッド映画的な価値観が全面化している世の中で

まだまだハリウッド映画的な文脈自由なエンタメ至上主義の価値観を追認しようとする、その動機ってのは一体なんなんでしょね。

言い方を換えれば、市場によって肯定されているものをさらに言論によっても肯定しようとする、その動機とはなんぞや、と。それって単に勝ち馬に乗ってるだけなんじゃねーの? http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070501%23p1 のブクマコメントやら元エントリやらを見ての感想

なんかモヤモヤしてきたので追記。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070501#p1

知的鑑賞は感情的消費よりエラいのか。叙事は叙情よりエラいのか。

エラいよ。ボーっとしてても感じとれる受動的な「感情的消費」よりも、能動的な要素が関連する「知的鑑賞」の方がエラい。なぜなら能動的な態度エラいから。「頑張っている奴の方が頑張ってない奴よりエラい」ってのは近代以降の社会大前提でしょ?

だから知的鑑賞をするための努力をしないやつ、向上心のないやつは馬鹿にされていい。てか、馬鹿にされたってべつに死にゃーしないし他の実害もないんだからいいじゃん。

もう少し話を進めるなら、馬鹿にされてムキになってキレるやつ、必死で反論するやつって、「知的鑑賞」に憧れてる人だよね。憧れてても届かないから「知的鑑賞のできるやつがそんなにエラいのかよムキー!!」って怒るの。まったく興味がないひとは黙々と「感情的消費」に勤しんでるもんでしょ。勘違いされたくないけど、日記過去ログを読むに高橋直樹氏がそういう人だとはまったく思わない。そういうことが言いたいのではなくて、なんで高橋直樹氏はそのような「向上心の裏返しのルサンチマン」を元に、他人の足をひっぱることに必死なハンパヤローたちを擁護しようと必死なのかまったくわからないということが言いたいのです。

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