はてなキーワード: コスモとは
http://anond.hatelabo.jp/20090402020114
意外に思うかもしれないが、
日本というのは、個人性の強い文化なのだ。
とりあえず、Wikipediaの「爵位」という項目を読んでみてくれ。
欧州の爵位に共通しているのは「爵位」という名誉は何らかの貴族の家系そのものに対して与えられているのではなく大本の爵位(官職)が担当する行政区域(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているもので、爵位の保持とは言い換えればこうした領域の保持の事という点である。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を実効支配する人物こそが爵位を名乗るに相応しい人物という形になる。
こうした点は家柄そのものに与えられる称号である日本の爵位制度とは大きく異なるため、注意が必要である。例を挙げれば、ある一つの家が複数の爵位を保持している状況は日本においては制度的に考えられない。しかしヨーロッパの場合はその爵位の担当する所領を保持していることが爵位の保持と同義であるから、ある家が7つも8つも爵位を保持していることは全く珍しくない。こうした複数の爵位を保持する家の場合、もっとも重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることすらある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B5%E4%BD%8D
「神のもとの平等」という建前のある西洋では、
「高貴さ」は王権神授説的な「神の代理人」として合理化されており、
「立場」に由来しているものとされている。
(あくまで建前上の話である)
一方、日本では、「現人神」がいたり、「生き仏」がいたり、カジュアルな「ネ申」だっているわけで、
神性を含む「高貴さ」は、「血統や個人の振る舞い」に由来している。
つまり、西洋に比べ個人性が強いのである。
だから、元増田がいうような
「総理大臣とは役割である」という考えは、
日本ではそもそも馴染みがないのだ。
あるいは一般論で言えば「ノブレス・オブリージュ」でもよいが、
「高貴なる個人が、そうでないものを導く」という価値観である。
それが「ニュータイプ」だったり「イノベイター」だったりするわけだ。
(追記注:西洋的にはノブレス・オブリージュは「高貴な立場にある人間が・・・」であり、個人性は建前上、消されている)
こういったものは建前上、西洋では受け入れられない。
つまり、
「高貴さは、その人個人に由来するのではなく、立場に由来する」
ということにしているのだ。
日本はそうではない。
王権神授説的な
「高貴さは、その人個人に由来するのではなく、立場に由来する」
という考えは輸入しなかった。
日本では、「高貴さは、その人個人に由来する」のが当たり前であり、正義なのだ。
今までの話を一般化すれば、
「日本という物語は、個人を神格化することで受け継がれている」
ということになる。
だからこそ、「総理大臣とは役割である」という考えは、
日本では建前にもならないわけだ。
かれこれ数ヶ月ほど週末にゲームばかりしていたら、彼が「そろそろデートしませんか?来週あたり横浜にでも。」と、提案してきたので脊髄反射的に「いいよ」と答えた。ゲームをしていると生返事になるのを知ってか?策士め。それが先々週の話。
それから一週間、横浜は海沿いだから寒そうだね、冬本番だねと会話の端々にサブリミナルの如く外出を拒否するキーワードを盛り込んだが効果はなかった。デート当日の土曜日。予想を裏切り、気温は暖かい。
駅についたら、昨晩は遅くまでゲームをしていたからかお腹が空いていた。お洒落にランチはパスタだ、パスタ。ジャパニーズ天麩羅そばパスタを食す。その後はブラブラとウィンドウショッピングを楽しんだり、菓子の量り売りをしているスウィートファクトリーへ寄って、きゃははうっふふと絶対食べないだろう赤色5号的な毒々しい色をした菓子を買う。ちょっと楽しい。
歩きつかれたところでジェラートを食す。ジェラートを食べるワンシーンが印象的なローマの休日ならぬ、横浜の休日ってかおい。ハイカラだなぁ・・・なんて考えていたら、彼が「ぼ・・ぼくたち・・・リ・・・リア充?」と抜かす。残念、それは今日のNGワードだ。
その後はそばとジェラートの消化を促すべく、コスモワールドでジェットコースターに乗り胃袋をシェイク。外は寒いので隣接しているゲーセンに入ってサッカーゲームを楽しむ。もちろん1人で。1から9と書かれた3×3のパネルをサッカーボールを蹴って狙うゲーム。体育科舐めんなよとつぶやきながらバシバシとパネルを消す。気がつけば、サッカーゲームに夢中になっていてショボン(´・ω・`)顔になっていた彼。あぁ、これはデートだとミッションを思い出し、一緒に遊べるゲームを、ということでバイクのレースゲームをやる。バイクのスタートがわからずブレーキをかけ、ブオンブオンとふかしている彼を横目にさくさくと一人でプレイする。あれ?シチュエーション的に男女逆じゃね?と思いながらも最後は負けてやった。負けてやったんだぞ!わざと、だぞ!
遊びつかれたところで、東京徒歩スピード10分1くらいで赤レンガ倉庫に向かう。赤レンガ倉庫に着たら彼が「建物の中にお店があるんだ!倉庫なだけかと思っていたよ!」と言うのでだめだこいつ早くなんとかしないと(中略)気がつけば赤レンガ倉庫の付近では若者が行列をなしていた。
赤レンガ倉庫はただの倉庫じゃないことがわかったところで、山下公園まで歩く。クルージング的な船の受付時間が締め切りそうだったので「どうする?乗る?ぼくは乗りたい!」と彼に煽られ「いや、また今度くるときに・・・」と言いかけたところで(いや、引きこもりに次はないわー)と思い返し「やっぱり乗る・・」と返事をした。日が落ちるのは早く、船に乗るころには横浜はライトアップされていた。これがブルーライト横浜や!
転覆せずクルージングも無事に終わり、帰りは水上バスで駅に向かう。その頃にはデート開始から5時間が経過しており、慣れない外出で疲れもたまり、眠ってしまった。が、私の夢の中をドスと聞いた誰かの声で荒らされた。悪夢や!何事かと目を覚ますと赤レンガ倉庫で浜崎あゆみがライブをやっているとか。あぁ、さっきの行列はそれかと夢現に思い出し眠りを妨げられたことに憤慨しつつ、また眠った。
水上からの横浜の夜景を見たら次は空から夜景を見るのがきっとリア充デートの定番であろう、ランドマークタワーから夜景を見た。私は感動した。
Web上に文字残すことに責任がなんかしらの責任があるってんなら、
結局は、「俺の/私の求める責任を果たしてくれ」って言いたいだけだろ。
コメ欄ないブログはクソ、トラバ閉じんじゃねーみたいなもんか?
はてブコメってはな、そのエントリに対するレスをたった100文字に濃縮する、
そのためのショーケースなんだよ。
慎重に言葉を選んで、気合いを入れたコメントに星がついたのつかないだので一喜一憂、
そんな世界なんだよ。いや、小宇宙だな、小宇宙。ちゃんとコスモって読めよ。
ネタ提供したからって、はてブコメンターの自由を束縛できると思うなよ!
そもそも、元記事のコメント欄なんてブログ主くらいしか見ねーよ。
俺が作った、100文字の新しい物語なんだよ。
そりゃな、人様の人格を否定するようなことは言っちゃいけねーよ。
ただ、そりゃ仁義の問題だ。どこであろうと仁義をかいちゃいけねぇ。
はてブだからとかいう話でもねーと思うけどな。
仁義欠いた奴に反論できないのが悔しい?
いや別に反論する必要はねーよ。どうしてもってんなら、
そういう阿呆はそのエントリ中でフルボッコしてやりゃいいんだよ。
本人が気付かないかもしれないって?
つーかよ、ブログ書いてるならわかるだろ、そういう痛いのを相手にするのが
どれほど面倒かってことをよ。だったら、相手が気付かなくてもいいじゃねーか。
秒速5センチメートルを観た。コスモナウトで、たかきが送る宛ての無いメールを書いている、というくだりで、「ああ、あかりとはぜんぜん続いていなくて未練が残ってるんだな」ということが理解できなかった。
これは自分も気付かなかった。
そこまでやばいレベルの記憶力の無さじゃなくて、例えば友達と話したことで、大抵の人が10覚えている話題も、自分が思い出そうとすると2,3も思い出せなかったりとか。そういう、「話をちゃんと聞いていない」的な感じなのです。そういう思考回路が長年積み重なって、理解力や記憶力が弱くなってしまったというか。「ちゃんと理解しながら人の話を聞く」という方法を忘れた感じです。
自分でも笑っちゃうくらい理解力や記憶力がありません。最近ではこんなことがありました。
こんな感じです。自分でもやばいと思う。
漫画でも小説でもいいんだけど、これはまさしく自分のことではないかという作品ってあるよね。個人的なイメージでは、「山月記」や「人間失格」なんかが、そう思ってる人の多い作品のような気がする。「秒速5センチメートル」は、私にとってまさにそういう作品。この映画の評価は、観る人の背景によるという評があったと思うけど、それでいうなら私は、背景による影響が最も大きい人の一部ではないかとすら思う。
こんなことソーシャルな知り合いが読んでるかもしれないブログでは書けないからここに書くんだけど、私も小学生のとき好きな女の子が転校してしまった。それから年賀状を交わすようになり、やがてそこにお互いへの想いをほのめかす文が添えられるようになって、中学生のとき晴れて再会することとなった。別に電車で3時間ということもなく、自転車でも行ける距離で、私も転校などせずに、手紙を交わし、さらに何度か会ったのだけど、結局うまくいってた期間は半年もなかった。
だからこそ、特に第3話「秒速5センチメートル」のシーンの一つ一つが、過去からの呪いとなって、私に突き刺さる。明里が手紙を書こうとしては手が止まってしまうのも、貴樹が通学路の傍に明里の影を見るのも、明里がポストを見て書くはずだった手紙に思いをはせるのも、貴樹が空の郵便受けに落胆するのも、すべてが自分と重なり、切ないを通り越して、やりきれない気持ちにさいなまれる。
手紙を書かなくてはいけない、出さなくては思いを伝えられない、でも動けない。手は止まり、書かないのか書けないのかも定かではなくなり、そして相手からの文も途絶える。そんな思いを畳み掛けられ、平常でいられようはずがない。やりようのない思いを胸に、今すぐにでも叫びだしたい衝動に駆られる。
最後、踏切で貴樹とすれ違った女性が明里である必要はないという意見があったけど、私はあれは明里でなくてはならないと思う。明里が電車の通過を待つことなく去ったからこそ、貴樹は踵を返したときに、下ではなく前を向けたんだと思う。自分もそういう機会が与えられれば、過去を囚われるものではなく思い出として、心にしまっておけるだろうにという足掻きが、そんな思いを起こさせるだけかもしれないけれど。
でも一点わからない部分があって、それは第2話「コスモナウト」の最後、貴樹はなぜ夢で明里の顔を見られたんだろうかということ。既に連絡も途絶え、心の奥底ではどうあれ少なくとも表面上では、もう終わったことと自分に言い聞かせていただろうに。だからこそ夢で少女の顔を見れなかったんだろうに。惑星探査機に思いをはせる中で、閉じ込めきれなかった想いが漏れ出してきたんだろうか。それに対して貴樹がなんら行動を起こせなかったであろうことは、歯がゆくはあるけれど、自分と照らし合わせれば、悔やみつつも納得してしまう。
新海誠の「秒速5センチメートル」。それは私にとっては劇薬で、でも惹かれずにはいられない、そんな映画。