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2009-04-02

Re:総理大臣とは、役割である

http://anond.hatelabo.jp/20090402020114

 

文章が長くなったので、要点を超訳
  1. 日本では「総理大臣は役割である」という西洋的な考えはなじまない。
  2. それは爵位の与えられ方を見れば分かる。
  3. 爵位の与えられ方が違うのは日本王権神授説的な考えを持っていないからである。
  4. 日本には「高貴さは個人に由来する」という通念があり、個人性が強い。
  5. それはガンダムにも見出すことが出来る。
  6. 天皇制にあるように、日本では「個人を神格化」することで文化的な統一性を維持している。

 

以下、当初の本文

内閣支持率ニュースを見るたびに、いつから日本人は「総理大臣とは役割である」ことを忘れてしまったのだろう、と思う。

意外に思うかもしれないが、

日本というのは、個人性の強い文化なのだ。

西洋啓蒙主義的な意味での個人主義ではない)

 

とりあえず、Wikipediaの「爵位」という項目を読んでみてくれ。

日本爵位制度との違い

 

欧州爵位に共通しているのは「爵位」という名誉は何らかの貴族家系そのものに対して与えられているのではなく大本の爵位官職)が担当する行政区域(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているもので、爵位の保持とは言い換えればこうした領域の保持の事という点である。つまり特定の地域が何らかの爵位担当する区域であるなら、その区域を実効支配する人物こそが爵位を名乗るに相応しい人物という形になる。

 

こうした点は家柄そのものに与えられる称号である日本爵位制度とは大きく異なるため、注意が必要である。例を挙げれば、ある一つの家が複数の爵位を保持している状況は日本においては制度的に考えられない。しかしヨーロッパの場合はその爵位担当する所領を保持していることが爵位の保持と同義であるから、ある家が7つも8つも爵位を保持していることは全く珍しくない。こうした複数の爵位を保持する家の場合、もっとも重要爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることすらある。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B5%E4%BD%8D

「神のもとの平等」という建前のある西洋では、

「高貴さ」は王権神授説的な「神の代理人」として合理化されており、

「立場」に由来しているものとされている。

(あくまで建前上の話である)

 

一方、日本では、「現人神」がいたり、「生き仏」がいたり、カジュアルな「ネ申」だっているわけで、

神性を含む「高貴さ」は、「血統や個人の振る舞い」に由来している。

つまり、西洋に比べ個人性が強いのである。

 

だから、元増田がいうような

総理大臣とは役割である」という考えは、

日本ではそもそも馴染みがないのだ。

 

さて、ガンダムに「コスモ貴族主義」という言葉がある。

あるいは一般論で言えば「ノブレス・オブリージュ」でもよいが、

あのガンダムという物語根底に流れているのは、

「高貴なる個人が、そうでないものを導く」という価値観である。

それが「ニュータイプ」だったり「イノベイター」だったりするわけだ。

(追記注:西洋的にはノブレス・オブリージュは「高貴な立場にある人間が・・・」であり、個人性は建前上、消されている)

 

こういったものは建前上、西洋では受け入れられない。

西洋では、社会システムの中に人間の貴賎が組み込まれている。

つまり、

「高貴さは、その人個人に由来するのではなく、立場に由来する」

ということにしているのだ。

 

日本はそうではない。

確かに社会システム西洋のものを使っているが、

王権神授説的な

「高貴さは、その人個人に由来するのではなく、立場に由来する」

という考えは輸入しなかった。

なぜなら、天皇という現人神がいたからだ。

日本では、「高貴さは、その人個人に由来する」のが当たり前であり、正義なのだ。

 

今までの話を一般化すれば、

日本という物語は、個人を神格化することで受け継がれている」

ということになる。

 

だからこそ、「総理大臣とは役割である」という考えは、

日本では建前にもならないわけだ。

2008-12-15

ある休日

かれこれ数ヶ月ほど週末にゲームばかりしていたら、彼が「そろそろデートしませんか?来週あたり横浜にでも。」と、提案してきたので脊髄反射的に「いいよ」と答えた。ゲームをしていると生返事になるのを知ってか?策士め。それが先々週の話。

それから一週間、横浜は海沿いだから寒そうだね、冬本番だねと会話の端々にサブリミナルの如く外出を拒否するキーワードを盛り込んだが効果はなかった。デート当日の土曜日。予想を裏切り、気温は暖かい

駅についたら、昨晩は遅くまでゲームをしていたからかお腹が空いていた。お洒落ランチパスタだ、パスタジャパニーズ天麩羅そばパスタを食す。その後はブラブラウィンドウショッピングを楽しんだり、菓子量り売りをしているスウィートファクトリーへ寄って、きゃははうっふふと絶対食べないだろう赤色5号的な毒々しい色をした菓子を買う。ちょっと楽しい

歩きつかれたところでジェラートを食す。ジェラートを食べるワンシーンが印象的なローマの休日ならぬ、横浜休日ってかおい。ハイカラだなぁ・・・なんて考えていたら、彼が「ぼ・・ぼくたち・・・リ・・・リア充?」と抜かす。残念、それは今日NGワードだ。

その後はそばとジェラートの消化を促すべく、コスモワールドジェットコースターに乗り胃袋をシェイク。外は寒いので隣接しているゲーセンに入ってサッカーゲームを楽しむ。もちろん1人で。1から9と書かれた3×3のパネルサッカーボールを蹴って狙うゲーム。体育科舐めんなよとつぶやきながらバシバシとパネルを消す。気がつけば、サッカーゲームに夢中になっていてショボン(´・ω・`)顔になっていた彼。あぁ、これはデートだとミッションを思い出し、一緒に遊べるゲームを、ということでバイクレースゲームをやる。バイクスタートがわからずブレーキをかけ、ブオンブオンとふかしている彼を横目にさくさくと一人でプレイする。あれ?シチュエーション的に男女逆じゃね?と思いながらも最後は負けてやった。負けてやったんだぞ!わざと、だぞ!

遊びつかれたところで、東京徒歩スピード10分1くらいで赤レンガ倉庫に向かう。赤レンガ倉庫に着たら彼が「建物の中にお店があるんだ!倉庫なだけかと思っていたよ!」と言うのでだめだこいつ早くなんとかしないと(中略)気がつけば赤レンガ倉庫の付近では若者行列をなしていた。

赤レンガ倉庫はただの倉庫じゃないことがわかったところで、山下公園まで歩く。クルージング的な船の受付時間が締め切りそうだったので「どうする?乗る?ぼくは乗りたい!」と彼に煽られ「いや、また今度くるときに・・・」と言いかけたところで(いや、引きこもりに次はないわー)と思い返し「やっぱり乗る・・」と返事をした。日が落ちるのは早く、船に乗るころには横浜ライトアップされていた。これがブルーライト横浜や!

転覆せずクルージングも無事に終わり、帰りは水上バスで駅に向かう。その頃にはデート開始から5時間が経過しており、慣れない外出で疲れもたまり、眠ってしまった。が、私の夢の中をドスと聞いた誰かの声で荒らされた。悪夢や!何事かと目を覚ますと赤レンガ倉庫浜崎あゆみライブをやっているとか。あぁ、さっきの行列はそれかと夢現に思い出し眠りを妨げられたことに憤慨しつつ、また眠った。

水上からの横浜夜景を見たら次は空から夜景を見るのがきっとリア充デートの定番であろう、ランドマークタワーから夜景を見た。私は感動した。

日本エレベーター技術はすごい。

2008-10-13

はてブコメ無責任っていうが

そもそも何に対して責任をとれるかってんだよな。

Web上に文字残すことに責任がなんかしらの責任があるってんなら、

ブクマ元のブログなりサイトと変わるところはないだろ。

はてブに書くのが責任放棄だとかよくわかんねーんだけど。

結局は、「俺の/私の求める責任を果たしてくれ」って言いたいだけだろ。

コメ欄ないブログはクソ、トラバ閉じんじゃねーみたいなもんか?

はてブコメってはな、そのエントリに対するレスをたった100文字に濃縮する、

そのためのショーケースなんだよ。

慎重に言葉を選んで、気合いを入れたコメントに星がついたのつかないだので一喜一憂

そんな世界なんだよ。いや、小宇宙だな、小宇宙。ちゃんとコスモって読めよ。

で、ブログコメント欄があるならそっちにかけだと?

ネタ提供したからって、はてブコメンターの自由を束縛できると思うなよ!

そもそも、元記事のコメント欄なんてブログ主くらいしか見ねーよ。

コメントは元エントリのためだけのものじゃねーんだよ。

俺が作った、100文字の新しい物語なんだよ。

そりゃな、人様の人格を否定するようなことは言っちゃいけねーよ。

ただ、そりゃ仁義の問題だ。どこであろうと仁義をかいちゃいけねぇ。

はてブだからとかいう話でもねーと思うけどな。

仁義欠いた奴に反論できないのが悔しい?

いや別に反論する必要はねーよ。どうしてもってんなら、

そういう阿呆はそのエントリ中でフルボッコしてやりゃいいんだよ。

本人が気付かないかもしれないって?

つーかよ、ブログ書いてるならわかるだろ、そういう痛いのを相手にするのが

どれほど面倒かってことをよ。だったら、相手が気付かなくてもいいじゃねーか。

…で、「はてブコメ無責任だ」なんて誰が言ったかって?

んなものは藁人形、空想上の生き物だバーロー

2008-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20080902091655

ま、そういう考え方もあるでしょうなぁ

国粋主義的すぎて、俺はコミットできないが


地球規模で見れば、絶賛人口爆発中なんだから、国家なんて狭い単位で考えなくていいじゃん

人口爆発な国からどんどん養子でも移民でも受け入れればいいじゃん

…て言うヤツにも、グローバリズムコスモポリタニズム的すぎて、俺はコミットできないが

2008-07-13

http://anond.hatelabo.jp/20080713224231

おれは逆に、絶対に優越感に変換してはダメだけど、色んな違いがある世界が好き。

その違いの中に国や人種はある。世界を一つにするのだけは本当に嫌だ。

今みたいに色々別れてる方が好き。言語も、人種も、民族も、服装も、建物も、植物も、あるまとまり事に違いがある世界に生きたい。

だけどそれに上下の差をつけることだけは絶対ダメ。って感覚

上下の差をつけないってことに関しては左翼的な感覚に共感するけど、コスモポリタニズム的な融合世界には嫌悪感が強くある。

2007-08-15

http://anond.hatelabo.jp/20070815212600

秒速5センチメートルを観た。コスモナウトで、たかきが送る宛ての無いメールを書いている、というくだりで、「ああ、あかりとはぜんぜん続いていなくて未練が残ってるんだな」ということが理解できなかった。

これは自分も気付かなかった。

http://anond.hatelabo.jp/20070815205812

そこまでやばいレベル記憶力の無さじゃなくて、例えば友達と話したことで、大抵の人が10覚えている話題も、自分が思い出そうとすると2,3も思い出せなかったりとか。そういう、「話をちゃんと聞いていない」的な感じなのです。そういう思考回路が長年積み重なって、理解力や記憶力が弱くなってしまったというか。「ちゃんと理解しながら人の話を聞く」という方法を忘れた感じです。

自分でも笑っちゃうくらい理解力や記憶力がありません。最近ではこんなことがありました。

  • 秒速5センチメートルを観た。コスモナウトで、たかきが送る宛ての無いメールを書いている、というくだりで、「ああ、あかりとはぜんぜん続いていなくて未練が残ってるんだな」ということが理解できなかった。そのくらい理解力が無い。
  • 最近しながわ水族館に行った。後日(2週間後くらい)、まったく別の人とまったく別の話題で、しながわ水族館の最寄駅の名前が話の中に出てきたのだが、その駅名を聞いてもしながわ水族館の最寄駅だ、ということに気付けなかった。そのくらい記憶力が無い。

こんな感じです。自分でもやばいと思う。

2007-04-17

いまさらながら「秒速5センチメートル」を観た(ネタばれ

漫画でも小説でもいいんだけど、これはまさしく自分のことではないかという作品ってあるよね。個人的なイメージでは、「山月記」や「人間失格」なんかが、そう思ってる人の多い作品のような気がする。「秒速5センチメートル」は、私にとってまさにそういう作品。この映画の評価は、観る人の背景によるという評があったと思うけど、それでいうなら私は、背景による影響が最も大きい人の一部ではないかとすら思う。

こんなことソーシャルな知り合いが読んでるかもしれないブログでは書けないからここに書くんだけど、私も小学生のとき好きな女の子が転校してしまった。それから年賀状を交わすようになり、やがてそこにお互いへの想いをほのめかす文が添えられるようになって、中学生のとき晴れて再会することとなった。別に電車で3時間ということもなく、自転車でも行ける距離で、私も転校などせずに、手紙を交わし、さらに何度か会ったのだけど、結局うまくいってた期間は半年もなかった。

だからこそ、特に第3話「秒速5センチメートル」のシーンの一つ一つが、過去からの呪いとなって、私に突き刺さる。明里が手紙を書こうとしては手が止まってしまうのも、貴樹が通学路の傍に明里の影を見るのも、明里がポストを見て書くはずだった手紙に思いをはせるのも、貴樹が空の郵便受けに落胆するのも、すべてが自分と重なり、切ないを通り越して、やりきれない気持ちにさいなまれる。

手紙を書かなくてはいけない、出さなくては思いを伝えられない、でも動けない。手は止まり、書かないのか書けないのかも定かではなくなり、そして相手からの文も途絶える。そんな思いを畳み掛けられ、平常でいられようはずがない。やりようのない思いを胸に、今すぐにでも叫びだしたい衝動に駆られる。

最後、踏切で貴樹とすれ違った女性が明里である必要はないという意見があったけど、私はあれは明里でなくてはならないと思う。明里が電車の通過を待つことなく去ったからこそ、貴樹は踵を返したときに、下ではなく前を向けたんだと思う。自分もそういう機会が与えられれば、過去を囚われるものではなく思い出として、心にしまっておけるだろうにという足掻きが、そんな思いを起こさせるだけかもしれないけれど。

でも一点わからない部分があって、それは第2話「コスモナウト」の最後、貴樹はなぜ夢で明里の顔を見られたんだろうかということ。既に連絡も途絶え、心の奥底ではどうあれ少なくとも表面上では、もう終わったことと自分に言い聞かせていただろうに。だからこそ夢で少女の顔を見れなかったんだろうに。惑星探査機に思いをはせる中で、閉じ込めきれなかった想いが漏れ出してきたんだろうか。それに対して貴樹がなんら行動を起こせなかったであろうことは、歯がゆくはあるけれど、自分と照らし合わせれば、悔やみつつも納得してしまう。

新海誠の「秒速5センチメートル」。それは私にとっては劇薬で、でも惹かれずにはいられない、そんな映画

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