最近SNSで、安倍さんへの弔文を綴っている人々が多々いて、ある種の気持ち悪さを感じる。ええ?あの人もこの人も??と、それを目にする度に「なぜこの人たちは、特に親しくもない人の死をこんなにも悲しんでいるのだろうか?」という疑問や気持ち悪さを毎回感じていた。「遠い人の死に何も感じない自分が冷たいのだろうか?」そうも思った。
ある日、「これはある種の祭りなのでは?しかも、誰にも否定されない保護された祭りなのでは?」と閃いた。
みんなSNSで何かを発言したがっていて、いいね!をされたがっているとする。また、発言の機会となる何かのイベント(祭り)を待っているとする。
このとき、何か発言をすると常に否定されるリスクをはらんでいるのだが、今回「誰かの死を悲しむ」という発言をして、それを否定する人があれば、否定する人のほうが人でなし扱いを受ける。なので、今回、自分のように内心気持ち悪さを感じていても、そういった人々はそれを否定する発言をしない。この祭りは、非常に発言の安全性が保護された祭りなのではないだろうか。
※人の死に際して「祭り」という単語に気分の悪さを感じる人もいると思う。しかし、私の感覚では、これは「お祭り(騒ぎ)」という単語がフィットして、自分の中ではなんだか腑に落ちるのだ。この感覚を更にうまく言語化できる方のレスを募集中。
※ちなみに志村けんさんが亡くなったときも近い気持ちだった。ただ、志村けんさんよりも、今回は無差別に弔文を述べている感がすごい。志村けんさんの際は、志村けんさんの生み出したギャグに強く影響された人たちが、そのギャグや存在に対して悲しみを述べていたので、まだ理解できた。しかし、今回は「あなたは安倍さんにそんなに影響を受けてたっけ??」という人まで悲しみの発言しまくっているので、気持ち悪さがすごいのだ。
俺もなんか気持ち悪いって思ったけど、発言はできなかった人のひとりだわ。
ただのいい人アピールでしょ
そりゃああなた、ほとんどの日本人にとっては「顔を知ってる人が殺される」って初めての経験だし動揺なりなんなりするでしょ。 自分は街頭演説でハイタッチしたことがある程度だけ...
芸能人の死で動揺できるのってせいぜい10代まででは。 それ以降は身内が順番に死ぬし。
身内が殺人で死ぬ人ってのはそう多くはないからね
安倍はびっくりしたで終わったが 志村けんはなんか心に来たわ。 志村けんだからじゃなくてコロナで死んだ大物だったからもしれないが俺自信にも分からない
多感な時期は死自体に動揺する。 今回はニュースで衝撃的な映像が流れすぎて、いい大人も含めて、その動揺をこの人の死の動揺として勘違いしたんだろう。吊り橋効果だ。メディアが...
マスゴミが吊り橋効果狙ってあの映像流してたってことかよ。最悪じゃん。
京アニの件でそういう衝撃は経験済みという状態の自分はまあある種当然ながら例外的なんだと身に染みた というか正直3年前がフラッシュバックして辛かった
国葬もするから祭りだな!ワッショイワッショーーイ!
今日のワッショイ会場はここか!? ┗(゚ Д゚ )┛ワッショイ ┗( ゚Д ゚)┛ワッショイ ┗(゚ Д゚ )┛