2022-06-19

昨日、スポーツバー海外サッカーの話で初対面の男と意気投合して、近くのホテルで寝た。高校まで強豪校のサッカー部でレギュラーだったという男の身体は引き締まっていて、魅力的だった。

ただ、その男は夜風呂派だった。夜、寝る前に風呂に入り、普段なら風呂上がりにパンツを履き替え、翌朝は髭を剃り、髪を整える程度だと言う。私は朝風呂派で、夜はメイクを落とす程度、翌朝に風呂に入り、パンツを履き替え、真新しい気持ち朝日を浴びる。この違いは大きい。見解の相違、埋めがたい溝、いわば宗教観の違い。

眠りというのは、死である意識の電源を落とし、完全に無防備状態で、魂の抜けた肉体を横たえて翌日生まれ変わるための力を回復する。死と復活の儀式太陽が沈み、また登るように、肉体は眠りという死を経て復活する。この儀式をどう捉えるか。ここに夜風呂派と朝風呂派の意識の違いが現れる。

眠りという死を重視し、身体を清めて布団に入るのが夜風呂である。新しいパンツを履き、神妙な面持ちでパジャマという正装に着替え、神聖なる死の床に就く。対して朝風呂派は、死は復活の儀式の一環であり、朝の目覚め、そして復活の後の清めを重視する。何よりその日の生を祝福するために、身を清めて一日を迎えいれる。

とにかく私としとは、夜風呂派と長く一緒にいることはできない。眠る前には気持ちがすっかり冷めていて、おかげで熟睡することができた。朝、まだ眠る風呂の男を起こさないように、静かに身支度をし、さっさと電車に乗った。

男はまだ復活の瞬間を迎えていないかもしれない。眠りを崇拝する夜風呂派らしいことだ。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん