前々から大きな病を患っており、最近は寝たきりで入退院を繰り返しているような状況が続いていたので、覚悟はしていた。
田舎から出て東京で一人暮らしをしている私は、死に目に会えないかもなと思っていたし、こうしたご時世になってからは「もし何かあっても帰ってくるな」とも言われていた。
そんな心持ちでいたので、連絡を受けたときにも「ついにか」とは思ったものの、涙が出ることはなかった。
本人も周囲も積極的延命はしないという方針に納得していたということもあって、後悔などもない。
むしろ、心に浮かび上がってきたのは「葬儀に参加できないことへの(自分本位な)無念さ」だ。
他の家族は、それぞれの中にある祖父の記憶を語り合いながら「故人としての祖父」の姿を1つにまとめあげるのだろう。
ある意味ナラティブアプローチのようなもので、今日のできごとがまた新たな共通の物語となるのだろう。
でも、私の脳の中で消えかかっている祖父の記憶が引き上げられることはもうないだろうし、その物語に私はいない。
もちろん、無理にでも実家へ帰ろうなどとは思わない。