2019-01-10

推し認知された

私はあるジャンルオタク推し三次元だが、

先日ある出来事があって推し認知されていることの確信を得た。

確信を得た、というのは、私の推しは正直そんなにファンの多い人ではないし、私はまあ特徴的なオタクから認知されてるだろうなあということはなんとなく思っていた。

しかしそれは、認知されているかもしれないし、されていないかもしれないという甘やかな夢にすぎず、確信に至るものではなかった。

それが、ある出来事きっかけに確定的な事実となった。

以前「認知の重圧」について書いている増田がいた。本当に、大勢いるうちのオタクの一人でいられるというのは楽だった。現場に行かなくても罪悪感はないし、手紙もある程度自由に書ける。確かに認知されたことによるプレッシャー存在する。

しかし、やはり嬉しいことは嬉しい。いや、本当に嬉しい、すごく嬉しい。

私はまだ、認知の重圧について書いていた増田ほど「見られたい」という欲求がないせいかもしれない。私は、推しが私という存在を知っていることが奇跡のように思える。

推しは私と同じ世界に生きてたのか、と思う。同じ世界に生きて、同じ言葉を話してたのかと思う。

認知」ということが甘やかな夢だったとき幸せだったが、今もとても幸せだ。

すごい奇跡だな、好きだわ、ありがとう

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