先日ある出来事があって推しに認知されていることの確信を得た。
確信を得た、というのは、私の推しは正直そんなにファンの多い人ではないし、私はまあ特徴的なオタクだから、認知されてるだろうなあということはなんとなく思っていた。
しかしそれは、認知されているかもしれないし、されていないかもしれないという甘やかな夢にすぎず、確信に至るものではなかった。
以前「認知の重圧」について書いている増田がいた。本当に、大勢いるうちのオタクの一人でいられるというのは楽だった。現場に行かなくても罪悪感はないし、手紙もある程度自由に書ける。確かに認知されたことによるプレッシャーは存在する。
しかし、やはり嬉しいことは嬉しい。いや、本当に嬉しい、すごく嬉しい。
私はまだ、認知の重圧について書いていた増田ほど「見られたい」という欲求がないせいかもしれない。私は、推しが私という存在を知っていることが奇跡のように思える。
推しは私と同じ世界に生きてたのか、と思う。同じ世界に生きて、同じ言葉を話してたのかと思う。