2018-12-10

anond:20181210090711

実は理性の奴隷なのは君のほうではないのか?

思うに、「開放されるべき」「平等であるべき」というのは、人間本能感情根拠がある。

何が自明かといえば『社会平等であったほうが構成員感情が満足される』ということが自明だろう。アドルノ以前の20世紀哲学思想は、感情無視していたから、平等であるべきなのは自明、という根拠キリスト教宗教観を使っていた。だから君に自明でもなんでもねーだろ、と突っ込まれるような揚げ足が残ってしまっているんだが。しかしじゃあ一方で、自明じゃないか平等である必要なんて実はないよね? 自由な開放も理論的にはされてないといえるよね? というのもアドルノ以前のままだと思う。

この部分は、もっと主観的お気持ちで考えてよい。

感情が満足されたら解放されてるでいいんじゃないのか。

というか、主観的お気持ちしか考えられないということを哲学は重視せねばならないと思う。

記事への反応 -
  • 現実として解放されてないのに、解放されたふりをするのが滑稽だって言ってるんだよ。 更にその上「人類が取るべきスタンス」って言う時点でアホでしょ? だって数的優位の側が少...

    • 実は理性の奴隷なのは君のほうではないのか? 思うに、「開放されるべき」「平等であるべき」というのは、人間の本能的感情に根拠がある。 何が自明かといえば『社会は平等であった...

      • あー。主観的に弱者なんだから無限に配慮を求めていいとかいう慰安婦理論?

        • まあ、20世紀の経緯の結果、そういう風になっていってしまったね。今の人権思想は。 でも、理論的に解放されてないだろ、とか指摘するのはやはり20世紀に通り過ぎてきた場所だと思...

    • 功利主義も知らないお猿さんが弱肉強食のどこが悪いのか僕ちゃんにはわからないもん!だから正しいんだ!と喚いてて草

    • ニーチェとか読んで自分に酔って資源配分の正当性や再分配の有益性についてなんら知らない典型的なハンパかぶれの哲学徒って感じだね

    • そうは言っても基本的人権を獲得した経緯を見ても、暴力で勝ちとりながらより理性的な人間観を得てきたわけで、この次の人間観が「自由意志を持たないもの」となっても何の不思議...

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