例えば街中を歩いていた時に目の前に素晴らしいシャッターチャンスが訪れたとする。
そしてあなたのかばんの中には、相棒と呼ぶに相応しい自慢の愛機が眠っている。
カタログを目を皿のようにしてなめまわしやっとのおもいで選んだ逸品だ。
「さぁ出番だ。今こそお前の性能をフルに発揮してこの感動的瞬間を写真に納めるのだ!」
いま目の前に感動的瞬間があるにも関わらず、カメラをかばんから取り出すことができないのだ。
次第にあなたはこう考えるようになる。
「こんなところでカメラを取り出したら怪しまれるかも知れない」
「カメラを取り出しているうちにその瞬間はもう失われてしまうかもしれない」
「しっかり撮れてなくてあとで見なおして後悔するかもしれない」
「べつにそうまでして写真に撮っても誰かに見せるわけでもない」
「実はそれほどすばらしいシャッターチャンスでも無いのかもしれない」
次々に肥大していく言い訳によって目の前の瞬間は永遠に葬り去れてしまうのだ。
そしてあなたは考える。「あぁ。傷つかなくてよかった」と。
それならば問う。
一体あなたはいつになればそのカメラを躊躇なく取り出すことができるのか。
あなたの実力が満足のいく時点に達した時なか。それとも時間が解決するというのならば一体何年間カメラを続ければ許されるのか。
そうなのだ。あなたが解決してくれると期待している要素では、この問題は解決できないのだ。
あなたの写真に足りないものはカメラの性能でもあなたの実力でもない。
厚顔無恥にカメラを取り出し、その場の空気にはばからずシャッター音を鳴り響かせる人間に対する軽蔑にこそ、あなたの写真が上達しない一番の原因が潜んでいるのだ。
そこまで配慮のあるあなたなら、その写真は愛に満ちたとても素晴らしい作品に仕上がるはずだ。
誰に遠慮して自らの才能に道を譲る必要は無いのだ。
あなたに怪訝な顔を向ける人間がいれば微笑み返してやればいいのだ。
大丈夫だ。全てうまくいく。