自分は小学校時代真面目な生徒だった。当然道徳だろうがなんだろうが真面目に授業を聞いてた。
その結果かまあ勉強も出来たしそれで先生に褒められるのも好きだった。
小4か小5の時に人権教育の授業を何回かやった。その時のテーマはネタになりやすい部落差別とか外国人差別ではなく障害者差別。
確かその初回の授業だったか自分が「障害を持っている人が~」といった感じの発言をした時に先生にたしなめられた。
「障害者の人達は自分が障害を持ちたかったわけではないんだから『障害を持っている』ではなく『障害がある』と言うようにしましょう」
その時はそういうものなのか、と納得した。
このテーマで数回授業をやった後プリントを配られた。そこにはあるシチュエーションが書かれていた。
「この文章の中でいけないのはどこだと思いますか」と先生が皆に尋ねる。
プリントに書かれた場面内ではまあ分かりやすい障害者差別の内容が載っていた。これを普通に言えば正解なんだろうな、というのは
すぐに気づいたがそれでは他の生徒と同じだ。もう一度よく読むと文章内に「~に障害を持っている〇〇くんは~」と書いてある。
これを指摘すれば先生によく覚えていたと褒めてもらえる!と思いすぐに手を挙げて発表する。
「『障害を持っている』って書いてあるけど『障害がある』じゃないといけないと思います!」
すると先生は
その瞬間「人権教育ってその程度の物なのか」と一気に冷めてしまった。結局高校まで表面上は今までのように優等生然として
人権教育の授業を受けてたけど腹の中では「この授業意味あんの?」と思い続けていた。
こうして書いてみると「本当はその前から内心面倒だと思ってたんじゃないか?」とも思えるけどそうじゃない。
あの時から「人の気持ちってこんな些細な事で逆転するんだなー」と妙に冷めた視点を持ち続けてたし人と接する時の戒めにしてたから。
元気かな、Y先生。