1、興奮・衝動の段階、2、行動、3、行動→意識のフィードバック
1、興奮・衝動、即奇声、というのは絶対ではないけど衝動が大きいほど奇声にむすびつきやすい。
発達障害なんかはこの辺のリミッターが外れてるのかと予想する。興奮するな、衝動を抑えろっていうのは無理な話だろう。
2、もちろん興奮・衝動を感じたすべての人間が奇声をあげるわけではなくて、例えば良識ある大人ならその手の強い感情をかみころしたり静かに開放したりする。
というわけで病的な人間でなければこの段階で良識の有無が問題になるのかと思う。要はしつけと教育の問題で、親と学校が関与できる領域。
親や教師のように威厳や権威の無いよその人間が関与したとしてどれだけ効果があるのか怪しい。すごく薄いと思う。
3、奇声を上げたとしても本人の耳には聞こえてるわけで、その時点で評価してつぎのアクションに反映の段階があると思う。
自分のあげた大きな声を聞いて、気をつけて次からやめよう、と思うのは教育で意識にそういう通路ができてるからで、そういう通路の無い人間の意識というのは良く分からない。すごく動物的な気がする。
痛みを伴う行動なら次からやめようとなるはず、火に触らないとか。快感を伴う行動は歯止めが無い限りどんどん繰り返されるのだろうか。
個人的な経験やいくつかの証言をみるかぎりよその人間の注意は歯止めとしてすごく弱い。効果があっても一時。やはり威厳や権威がないと薄いのかなと思う。
親、教師に加えて、警察や行政に頼るほかないのかと思う。よその人間でも効果的な注意の方法があればいいのだけど。一種の服従を強いさせるわけだから関係性の中にそれなりの力を必要になるのだけど、そんなものが獲得できるものなのか。