十八才の時、自らの進路を決めるために志望校を決めた。本当は十八才なんて若さで将来のことなんか分かるわけないのに、その時の感情のおもむくままに、また周りの友人に流されるままに進路を選んだ。
冬になってセンターを経て受験が始まった。どこの会場に行っても、殺気に似た息づかいがひそひそと聞こえてくるようだった。寒い校外とは別に、教室の中だけは熱気に満ちていた。
第一志望の受験は一番最後だったのだけれど、その前にいわゆる「滑り止め」をいくつか受けた。受験しているときは自分が自分でないような気がして、もしこのまま受かってここに来ることになったら、いったいどんな四年間(以上)を過ごすことになるのだろうと不安にも思っていた。
幸か不幸か、その学校には合格した。あとは第一志望の受験を残すのみとなった。
第一志望の受験会場に行ったときには、足が震えていた。それは決して寒いからではなくて、周りのあまりの士気の高まりに自分がついて行けず、怖くて震えていた。それぐらい周囲の誰を見てもやる気に満ちあふれていた。
この時点で負けは決まっていた。当然ながらその学校には落ちてしまった。それも完敗だった。受験会場を後にした時点で負けを自認していた。
親には反対されたが、もう一度、第一志望の学校を来年受けてみようと思った。自分の進路に対する思いというものが、この敗北により徐々に明らかになっていくのが分かった。そう考えると、一度落ちたということは良かったことなのかもしれない。
四月になり、みんなの新生活が始まった。無事進学した者はそれぞれの場での活動が忙しいし、自分たち浪人組もまたこれから一年の戦いが待っていた。
最初は不安だった。勉強をするのは苦ではないが、それだけでこの貴重な十代最後の年を過ごしていいものか。また、勉強したからと言って確実に受かる保証をいったい誰が与えてくれるというのか。
これらの不安を払拭してくれたのは友人たちだった。授業が終わると一緒にファストフードやカラオケにいってお互いを励まし合った。自分が一人でないことを確認できた。みんなで一緒に壁を乗り越えていこうという気持ちになった。
やがて夏になり、秋が過ぎて、冬が来た。
今年もセンターの季節になった。しかし一年前とは違っていた。自分が進むべき道は自分の頭の中ではっきりと描かれていた。だからモチベーションを維持できた。この一年間、友人たちとも話しながら、決して遠くない将来の自分たちの姿を語り合ってきた。こうあるべき、とまではいかないが、こうなりたい、という希望や願望を夢とともに話し尽くした。
そんなバックボーンを抱えたまま、センターの会場に向かうと、周りの人間を圧巻した感じになる。自分は自分の力で道を切り開いて進んでいるのだという自負がある。
その年のセンターは大成功だった。予想以上といってもいいぐらいの成績を収めることができた。
二月になって、試験もいよいよ本格化してきた。昨年、事情により「蹴っ」た学校にも再び合格することができた。そしてまた、いよいよ、第一志望校の受験の日がやってきた。
受験会場に着いたときは、去年の自分とは違っていた。去年の自分のような人を横目に見ながら、さっそうと会場を練り歩き、目的の教室へと向かっていた。昨年と同じ会場で、二回目の会場なので、余裕もあった。
試験中は自分の最大限の力を発揮した。迷いはなかった。緊張もどこかへ吹き飛んだ。あるのは目の前にある真っ白な答案用紙のみ。そこに思いの丈をこれでもかとブチ込んだ。周りを威嚇するために、わざわざ大きな鉛筆音を出してカリカリと答案用紙を真っ黒にしてやった。
試験が終わって会場を出たときには、何とも言えない達成感があった。自分はやり遂げた。目標や夢というものに向かって歩き続けているという現実感を感じていた。そこに結果は必要ではなかった。自分の成長具合に自らが興奮していた。
約二週間後、合格発表があった。
…自分の番号はなかった。
もちろん泣いたが、そこには進歩した涙があった。これはあくまで予定調和で仕組まれた道なのだと、後になって十分に納得した。やるだけやって、自分が進んできた道は間違ってないと確信していた。結果というものは運命の導きであるから、それは胸を張って受け入れなければいけないと思った。
…結局、その後に受けた第二志望の学校に無事合格した。そして入学した。そのことについて、何ら負い目はなかった。確かに自分が想定していた進路は変更になったが、それについてはこの一年間で十分に吟味して、いろいろな可能性を考えていた。人間、どういう道をたどることになっても、そこで自分の力を発揮できればいいし、そうでなければいけないということを分かっていた。
結果的に受験自体は成功はしなかったけれど、この一年で得たものには限りない財産性があることを実感した。
一年前と比べると、自分の意志が確固としたものになっていたし、この一年間は決して無駄ではなかった。単なる時間つぶしのためのものではなかった。この一年がなければ、自分は人生において大きな欠損を抱えたまま生きていくことになるのだと思った。
浪人を勧めているわけではないが、人はどんな状況においてでも自分の価値を見出し、その価値を実現するために行動できるということが分かった。その信念に基づいて行動すれば、一般に辛いといわれる浪人の状況でも前向きに生きていくことができた。
今ではこの一年というのは、自分の人格形成を司った、極めて重要な一年だったということができる。そして友の存在。彼らとは未だに全く関係が切れていない。むしろ年々盛り上がっている。
自分は、こんな素敵な一年をこんな素敵な友と過ごせたことに感謝している。この時点において、自分の人生はまだ「点」に過ぎなかったが、今やそれは現在につながる「線」になっている。「点」が多くなければ「線」は存在し得ない。
そして今もまた、mixiやインターネットを経由した色々な面から「点」の形成をなしえている。感謝してもしきれない。
思えば、自分がもし第一志望に合格していたら、今の自分はなかった(もちろん別の自分があるのだけれど)。そう考えると、今の「線」のつながりを振り返り、また、前を向いて「線」を展望するに、不合格だったことはまさに運命のなせるものだったのかもしれない。
今、友人として多くの人と交流させてもらっている。これは運命なのだと。そしてその運命を今は楽しんでいるし、受け入れている。加えて、運命の「線」を先に延ばそうとがんばっている。その過程がとても楽しくて幸せである。
人によって「幸せ」といったものの定義は違うだろうが、少なくともここに一人、人生において「幸せ」をありがたく享受している人間がいる。たとえささやかなものであれ、それがみんなに行き渡ることができたらこれほど素晴らしいことはない。
人は、どんな状況からでも「幸せ」を獲得することができる。無駄な時間は一秒たりともない。自分が「幸せ」になろうと思えば、誰だってそうなることができる。間違いなくできる。「幸せ」になる権利がある。
唐突にあねが乱入してくる。
鬱になったから!
そう言い放ってドアをバタンと力強く閉めてその場を去る。
母は、あの子この間警官殺したのにばれちゃう
と言う。
僕はそうだったかな、確かにそうかもなと思って
それなら我々は殺人を隠匿していて、共犯になってしまうじゃないかと思う。
厄介な姉だ。
姉はどこかに消える。
一家の団らんが訪れる。
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やんでますなー
http://anond.hatelabo.jp/20090930114312
火のないところに煙をつけて妄想するのがやおいの人たち。もともとホモでないキャラを勝手にホモにしてるという負い目があるのでおとなしくしてるか、異様に攻撃的になる。
さらに自分たちがホモになれるわけもなく別段ホモの人たちに援助活動をしているわけでもないので、さらに負い目を感じることになる。
男性向けの場合は、「ひょっとしたらありうるかもしんない」というあたりで折り合いがついている。触手とかありえねーんだが、まあ広い宇宙のどっかにはいるかもしれんし、そもそも大前提として男女のセックスはある、という考え方があるので平然としていられる。
あと、男性の性欲は認められていて、女性の性欲は放置されてるということ。女性が男性向けのような作品をつくろうにも、いい大人にならんと資料が圧倒的にすくない。エロのためならどこにでも突撃できる中学生男子と違って、女性はどこを触ったら気持ちいいのか、イくのか、ってことは感覚的に理解できないんで(下手打つと既婚女性ですら)、作品にも反映できない。
月並みだが
存在しているということは、ただ存在しているというだけであって
存在理由というものは、その対象を承認してやるための後付でしかない。
しかし、そのことと「誰かに必要とされているか」というのは別問題。と、思う。
確かに誰にも必要とされていないもの・ひとはいるかもしれないが、だからといって存在理由がないとはいえない。
女は男と違って手当たり次第にやってもいいことないからだろ
図を見れば1秒でわかることをグダグダ長文書きたくない。
どっかにグラフ描画+お絵かき機能付きで増田みたいにどうでもいい話をウダウダできて人がそれなりにいるサイトって無いのか。
需要なさすぎなのかな。
ってことになってるけど、やおいを潜らせたい理由はそれだけなのかな。
女が積極的にエロいことを考えてるのがなんか嫌、っていうのもない?
男芸人はそうでもないけど女芸人の下ネタ(エロネタ)はなんか生々しくて嫌だし、
女性向けの性風俗は男性向けのに比べると少ないし。(女子だってお金払って適当な相手とお手軽にセックスかそれと同等のことしたいって思わない?)
百合だってやおいと同じくらい気持ち悪いと思うけど「隠れなきゃいけない」って言われてるのはあまり見ない。
でもやおいはやってる人たちも、外野も、隠れろ隠れろってことになってるのがなんか不思議。
ちんこは外に出てるけど、まんこは中に入ってるから??
男に囲まれて女王様ぶって、キスしたりお持ち帰りされたり、キープ(増田)の心を弄ぶガバガバ女なんて、さっさと見切りつけるべきだろう。
今年はとりあえず「充電期間」として何もしない。何もしないと来年度末には満期退学になっちゃうからとりあえず1年半くらい休学しつつ研究室にはたまに顔を出して論文の準備する。論文の準備が出来たころに復学して、
俺はこれで失敗した。休学期間も結局何もしないまま復学。復学してから必死ここうとしたけどやぱりダメだった
これは難しいな。俺には。
20代の頃は自分にとって「自分は価値値がない」と思っていた。必要ない人間だと。
30過ぎて結婚してから、他人から感謝される…必要とされることも…多くなった。
あるとき「他人の価値観からするとそんなに悪いに人間ではないらしい」と思うようになった。気づいたというより、そう思う生き方を選択した。
ただ「誰から評価されるのか、必要とされるのか」ということがかなり問題だと気づいたのは最近。
それに気づかないから、上司や上の立場の人からは評価されず、謂われのない賃金カットまでされた。
そうなると心身を病むわな。
病んじゃうと今まで必要としてくれた人の役にも立てなくなるわな。
そうすると生きてる価値がなくなるわな。
血がつながっていない人たちは私を温かく受け入れてくれている。
私もそれに報おうと生きている。
ところが、血がつながっている人たちは、私が生まれたときから私を受け入れなかった。
私に相続するという、死んだ父の遺言を隠してまで遺産を渡したくなかったようだ。
そんなに資産家ってわけでもないのに。
この差は何なんだろう。
会ったことがないのだし、私を必要としないのだし、面倒だから放棄すればいいのだけど、
なんだかむなしい。
・マック
マック鈴木の愛称。ちなみにパパイヤ鈴木の愛称はパパイヤ。
おっぱいバレーの次回作。残念ながらシリコンが入った女優しか見つけられなかったからこのタイトル。AV女優が出演するよくあるVシネマ。
オカマ。両性具有の便利な奴。
セカイを見通せるなら買いたい。セカイカメラを使うとホムンクルスが見えるらしい。
もともと、彼の父の為というのが、結婚の最大の理由ならば、それが無くなった今、離婚すること自体、自然の成り行きだと思います。
ただ、一番自分のことを理解して欲しい相手から追い詰められて、その状況で発した彼の「人生設計」は、おそらく彼の本意ではないでしょう。
少なくとも、どちらか片方の心に余裕が無い状況では、全てが悪い方向へ悪い方向へ、おちいっていきます。
貴女が
彼は優しいし気が利くし、恋人としては魅力的な人だ
と、思うならば、それを信じてあげること、信じるための努力を、二人で一緒に取り組んでいくには、どうすべきか?を、もっと考えられたら良かったのかもしれないですね。
解説です
破滅: ssig33 (俺)
リア充: udzura (男)
その他: shunirr(男) karia(男) kisaragisara(男、かわいい) breeziness(男) shao1555(男、年齢より 10 歳は老けて見える) DHC_(男) anemo(男、かわいいけど腹黒い)
といった感じです。
僕は割とその場がどうでもよかったので、 Skype 経由で遠くに住んでる人とカナダがオランダをレイプする話などで盛り上ってました。あと富山とオランダとか。
600万円の借金が引きなおしにより、1/5の120万に。
それを月13万円ずつ返済ってことは、約10ヶ月間返済していたのだろうか。
1年かからずに返済できて何より。
知人は360万の借金があって、任意整理にしたかったのだけど、弁護士事務所で
「何年も返していくの大変ですよ」と言われて、結局自己破産にしたそうな。
昔むかーし、SONYのebookとかNECのデジタルブックってのがあってなぁ……。
見るからに、今で言うKindleのようなものでなぁ……。
SONYのebookなんか、専用カートリッジに入った8cm CDを使ってて、中身もほぼ電子辞書規格のEPWINGでなぁ……。
おまえどういう読解力してんの。
おまえみたいなのが家族守れないで傷つけるんだよ。
あ、図星ならごめん。
俺は人の親として元増田の味方はできない。
その娘の味方。頭が下がる。
おまえと同様今後相手にしない。
うん、あれは一国一城の主だから頑張れるんだよ。コンビニのオーナー夫婦だって、あれが雇用という形態をとっていたら絶対やってらんない。
投稿論文はそうなんだけど、いわゆるD論、博士取得のための学位論文は、「最終年の1年間かけて書く(まとめる)」という表現で間違ってないと思うよ。いや、もちろん投稿論文は地道に投稿していかないといけないし、分野や大学によっては「投稿論文の本数で判断するからD論不要」というところもあるし、学部系統が違うとD論の長さが極端に違うし。個別の事情は違うとは思うんだが。
当方地底工学部だけど、毎年1~2本づつぐらいのペースで査読付論文を積み上げつつ、D論は「最終年の1年間かけて書く(まとめる)」という感じで捉えてる。工学部のD論だと100ページぐらい要求されるけど、医学部のD論は短い人だと30ページ程度とも聞いた。あと、今もそうか分からないけれど、文系の博士って平素の投稿論文とかD論を書くことよりも、博士論文に相当する著書を書き上げる方が大事で、それを持って学位審査に臨むって聞いたことがある。これらの話って本当?