2009年08月01日の日記

2009-08-01

http://anond.hatelabo.jp/20090801130250

男性の方がなにかとお金を出す機会が多いものなので(女性トントンと思ってるときは大抵男性が多く出してると思う。みんな自分が出す分は覚えてて相手が出す分は見過ごしがちだし。)、食事の材料費くらいチャラじゃないかなあ。それも程度問題で、毎月30日分の食事を作ってたらそりゃ請求した方がいいけど、月に4回しかない週末分だけだったら微妙な感じ。

ただ、実家暮らしの人とかにありがちだけど、外食はちゃんとコストとして認識してるのに、家で作る食事はコストも手間も無しで湧いて出てくるもんだと思われてたらモヤモヤするかも。一緒に買い物に行くのはいいアイディアだと思う。うーん、ただ、相手が自分の見えてない出費を負担してる可能性は忘れない方がいいと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20090730233422

http://bit.ly/2x0vpf

つまりはこういうことなんだって。

つまりこの御仁はネット上の水平主義を徹底して実践したい御仁なのでしょう。

メモ

すがすがしくなるくらいダメだ。こりゃ他人に言っても信じてもらえんかも。まあ、もうしばらくの辛抱だろう。状況が変わったら、思いっき暴露しよう。

http://anond.hatelabo.jp/20090801193808

http://anond.hatelabo.jp/20090801194217

同じ投稿を消しては書いています。

メモなのでトラックバックしないでください。

あんまり何度も書いて消ししてるから、途中から別の人が楽しくてやってるんだと思ってた

なんだろう、増田猫みたいな?

そういえば最近いなくなったね、増田

http://anond.hatelabo.jp/20090801192447

頭痛い…アンタ年上っぽいが精神年齢は年下っぽい気がしてきた

元の文章のどこにも大人ですからとは書いてないという意味誤読と言ったんだが

http://anond.hatelabo.jp/20090801194217

同じ投稿を消しては書いています。

ウケたw

http://anond.hatelabo.jp/20090801194721

え、これマジだったの?

誰かの悪戯だと思ったけど。

どうなの増田

たった20分程度で人生目標を見つける方法

同じ投稿を消しては書いています。

メモなのでトラックバックしないでください。

20090801追記

さて、最初の人とは別人が続けてるのかな? 検索で見つけやすいから、前と同じかどうかチェックするのに便利だと思って題名を同じにしたメモを投稿しただけ。

何度検索しても1個しか見つからないから、やっぱり「消しては書いて」るんだろうなあ。ご苦労さまです。

トラックバックは歓迎っす。

anond:20090802013945

いい加減秋田

(自分メモとして残しているだけなのでトラックバックをしないでください。邪魔なので)

言葉にすることが、思考である

言葉にすることが、思考である

4年前、ある著名な漫画家の方との会話からこの言葉を学んだときから、私の著作人生が始まったと言っても過言ではないでしょう。

私たち人間同士の間で、複雑なコミュニケーションが可能なのは、「言語」があるからです。すなわち、頭の中で「もやもや~」と思ったことを、すっきりとした概念に格納して反芻(はんすう)できるようにし、いつでも気づいたときに思い出せるようにするのが言語、すなわちこの連載でその力を紹介している言葉なのです。

だからこそ、私たちは考えをなるべく頻繁に言葉に落とす、つまり、みずから書いたり、話したりすることがたいへん大事なのです。

この原則に基づいて、私がふだん、著作の中で最も気をつけているのは、言葉の選択と組み合わせです。

私が経験してきたことそのものは、私にとって画像や音声、におい、感触、味覚の五感情報であったり、心臓のドキドキや、血の気の引く感覚であったりして、簡略化された言葉よりも、ずっとずっと情報量が多いのです。

しかし、そのときの思考や感情を、ありのまま正確に伝えることは、私の心の中を相手にのぞいてもらわない限り不可能です。だからこそ、いったん、言葉という媒体を使って文章に落とすとき、それを受け取った相手が、私の思考や感情をできるだけ再現できるように心がけています。

自分経験感覚を、なんらかの言葉に変換していくプロセスそのものが、私にとっての思考なのです。毎日、原稿を書くことは、自分と会話することと同じで、とても頭のパワーを使う作業です。ほんの数日、文章を書かなかっただけで思考力は低下し、その翌日に書こうとすると、余計なパワーが必要になります。だからこそ毎日、欠かさず、何か文章を書くように心がけています。

これまで、さまざまな場面で、私はみなさんに良書を読み、優れた思考や体験の持ち主の話を聞き、それに自分の体験を重ねて、ブログに書いたり、人に話したりすることをお勧めしてきました。その一連の流れが言葉を受け取って考え、その考えを再び言葉にする活動だからです。

言葉が私たちの思考をつかさどっている。だからこそ、言葉人生を変えるのです。

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200906140048.html

学ぶことは、まねること

学ぶことは、まねること

この言葉は、私が大好きな友人の口癖だったのですが、30代のころは、さほどありがたみがわかりませんでした。それが40歳になって初めて、重みや実感をもって響いてくるようになりました。

「学ぶ」と「まねる」はもともと同語源で、どちらも「真に似せること」を表しています。ただ、「学ぶ」の方は、より体系的に教えられる学問を学ぶのに用いられ、「まねる」はもともと「まねぶ」と表記され、相手の技を模倣するのに用いられるよう分岐していきました。

そして、社会人になったいま、学生時代のように体系的に「学ぶ」機会がどんどん少なくなっていく半面、さまざまな人や良書との出会いの中から相手の技を見抜き、「まねる」ことの方が、より汎用性が高くなっています。

実際、私はさまざまなメディアで人と対談する機会をいただいていますが、いま活躍している方たちが、どのような経験スキルを基礎にして業績を残しているのか、その土台となる部分について、いつも考え続けています。そして、自分もその能力を身につけたいと思ったときには積極的にまねていくのです。

最近ニューヨークで、マルコム・グラッドウェルという米国で何百万部も本を売っているベストセラーの著者にインタビューする機会がありました。最も感銘したのは、「どんなお客さんを想定して本を書いているのですか?」という私の質問に対する答えでした。

私は年齢とか性別などに関する返答を予想していたのですが、グラッドウェル氏の答えは、「私の本を読んで知的な刺激が得られるのを喜び、周りの見方に対する興味が活性化する層に向けて書いている」というものでした。

この答えに、自分がいかに年齢や性別と言った旧態依然の区分けにこだわっていたことかと深く反省しました。そして、グラッドウェル氏をまねて、私の顧客対象を「経済的、精神的な自立を望み、社会の変化に参加したい人」と考えるようにしました。

学ぶことは、まねることと得心し、少しでもいい気づきを得られると、まねることが苦ではなくなります。そして毎日、まねをくりかえし、組み合わせることで、新しい考え方を学んでいくのです。

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200906280105.html

自分の扱い方を人に教えよう

自分の扱い方を人に教えよう

この言葉は、「事実などない。認識だけだ」の回でも紹介した『Life Strategies』(邦訳『史上最強人生戦略マニュアルきこ書房)という、01年にアメリカで大ヒットした本から学びました。

どうして自分がこんなに不当に扱われるのか、私ばかり損をしている、そう感じている人は少なくないはずです。私も30歳過ぎぐらいまでは、ずっとそのように感じていました。なぜ私ばかり貧乏くじを引くのだろうと。

しかし、この言葉に出会って、まさしく私はそのように扱われるよう、周りに対応してしまっているのだとわかったのです。

例えば、何か相手に対して不満があっても、それを訴えずに唯々諾々(いいだくだく)と言うことを聞いていると、私をそのように扱ってくれ、と上司や他の同僚に説明しているも同然なのです。同じように、夫婦や親子関係でも、相手にどんなに不満があっても、嫌々ながら相手の言うとおりに従っていると、相手はどうやってこちらを扱えばうまくいくのか、学習してしまうのです。それが極端な事例になると、職場でのモラルハラスメントパワハラ家庭内暴力につながるわけです。

一度、その仕組みを理解してしまえば、対応は難しくありません。自分がどのように扱われたいのか、堂々と主張する習慣をつければいいだけです。されて嫌なことは、嫌だからこう改善してほしいと相手に伝えます。逆に、自分にとって好ましい扱いについては快適だと伝えるのです。

しかも、この仕組みは「繰り返しのゲーム」ですから、互いのやり取りが増えて、それぞれの学習効果が高まるほど、よりよい関係を築いていくことが可能です。

もちろん、遠慮が先に立って、なかなか言えないこともあるでしょう。しかし、相手に言えないことを自分の中に鬱々(うつうつ)と貯(た)めていくことは、実は自分を傷つけているだけではなく、相手との関係性も強く、深く、傷つけているのです。そして、不満がある相手とは長期に安定した関係を築くことが難しくなります。

自分の取り扱い説明書を解説できるのは自分だけ。だからこそ、少しでもわかりやすく、周りの人に自分の扱い方を教える責任があるのです。

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200905240090.html

夢は、語り続ければ実現する

夢は、語り続ければ実現する

この言葉は、以前から仮説として考えていました。

昨年12月、「夢を叶(かな)える私の方法」というテーマで、私が一緒にチャリティー・ブック・プログラム「Chabo!」を行っているベストセラー著者6人と共同イベントを行ったとき、経歴や年齢などのバックグラウンドがさまざまに異なるこの6人とも、共通してこのやり方で夢を叶えていたので、仮説は確信に変わりました。

米国ホテルに勤める夢が叶った著者、年収1千万円の仕事に就きたいと願っていたらそのような申し込みが来た著者、40歳までに大学で教えると決心していたらそうなった著者など、実現した夢はさまざまでした。しかし、共通点は「夢を個別具体的な言葉にして、人に語り続けた」ことだったのです。

まず、第一のステップは、漠然とした夢を、いつまでに、どういうことを、誰としたいのか、具体的な言葉に置き換えることです。そうすることで夢は予定になり、現実味を一気に帯びるのです。

私の場合、叶えた夢のひとつは「07年までに本を4冊出版して、合計で10万部売ること」でした。そして、この目標手帳に書き、パソコンエクセルシートに出版したい書籍の種類、それぞれの本ごとに予想される売り上げ明細を書き、デスクトップ上でいつでも見られるようにしておきました。

こうして夢を言葉にすることによって、行動目標としてしっかり心に設定され、私たちの無意識での意思決定に、さまざまな場面で影響するようになります。すなわち、無意識のときや迷ったとき、この夢に近づくよう行動を起こすようになるのです。

さらに、第二のステップは、その夢を公開して語り続け、周りの人たちから、どんどん助けを得ることです。

なぜなら、私たちは自分の夢を叶えたいと思っていますが、それと同じくらい、人の夢を叶える手助けもしたいからです。

まずは夢の定義をきっちり行い、それを行動計画として自分に染み込ませるとともに、周りに語ってどんどん公開していくと、その夢に共鳴して実現の手助けをしてくれる人たちを自然に引き寄せてくれるのです。ぜひ、やってみてください。

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200907050080.html

やる気に頼るな、仕組みに頼れ

やる気に頼るな、仕組みに頼れ

私がやってきたことのなかで、うまくいったことと、うまくいかなかったことを区別したとき、この言葉がひらめきました。長期的にはいい結果を得られるが、短期的には辛抱が必要なことを続けるには、やる気に頼らない仕組みを作れるかどうかが鍵だと気づかせてくれた言葉です。

例えば、毎日運動を続けることの難しさを経験している人は多いはずです。一番失敗しやすいと私が感じるのは、「がんばるぞ」と決意して、そのやる気だけで目標を達成しようとするときです。

毎朝6時に起きてジョギングをしようと決意した、としましょう。最初の数日はうまくいっても、そのうち前夜の帰宅が遅かったとか、天気が悪いとか、風邪気味だからなどと理由をつけて、あっという間に運動しなくなります。そして、ダンベル体操など新しいことを次々と手がけては、またもや続かなくなる。その繰り返しなのです。

なぜそうなるのか。「やる気だけでは、結果が出るまで続かないから」なのです。

運動を続けて、体調がよくなるのを実感できるのは数週間後からでしょう。しかし、その間にさまざまな「いいわけ」トラブルが出てきます。すると例えば、毎日続けられる確率が70%なら、10日連続して続けられる確率は0.7の10乗=0.028、つまり2.8%。ほとんどの人は途中でくじけてしまうのです。

これを防ぐには「意志の力に頼らなくても、続けられる仕組みを作ること」に尽きます。運動を続けたいなら、家の場所を最寄りの駅から歩いて15分かかるところにすれば、毎日、30分は歩くことになります。あるいは、スポーツクラブに入るときのコツは「家か職場か、どちらかに必ず近いところにすること」と「極力、手ぶらで行けること」、さらに「固定レッスンや予約などをとってスケジュールを確保すること」。どんなに意志が弱い人でも、続けられるようにするのです。

仕事も勉強も、意志だけに頼ると結局、中途半端に終わり、自己嫌悪に陥るという悪循環が生じます。そうではなくて、どうやったら続けられるようにできるのか、その仕組みを考え抜いていくと、成果が出やすくなります。

あなたに欠けていたのはやる気ではなく、仕組みです。

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200905170070.html

http://anond.hatelabo.jp/20090730115225

目っていうか顔全体の雰囲気じゃないかな。

高校生くらいからだんだん性格が顔に出てくる人が多いと思う。

もちろん例外もいるけど。

http://anond.hatelabo.jp/20090801190049

誤読してました。すいません><

ヒステリックなのは女性じゃなくて、元増田ですね。

スルーを覚えましょうw

映画とか小説とか

映画小説大学入ってからそれぞれ100本以上は見たり読んだりしたけど、よしあしの基準が最近よく分からない。

個人的なフィーリングで「いいぜ、この感じ」と思うのはあるけど、

それが教養主義的というか、客観的な基準において測りうるものなのかわからない。

はっきり言って個人的嗜好で好きなら好きでそれでかまわないのだけど、

何か客観的な基準において、個人的嗜好とは別に作品を把握することができればいいなとも思う。

もしかしてみんな映画とか小説に対して、客観的な基準みたいなものを持っているのだろうか。

そして、それとは別に個人的な基準みたいなものを持っているのだろうか。

ボーイッシュ女の子が出てきたら名作」「変な独白が続いたら名作」みたいな。

http://anond.hatelabo.jp/20090801080250

自分自身に足元をすくわれる例を後学のために教えていただけないでしょうか。

潔癖症は度を超すと人生の幅を狭める

偏見で汚い物事を嫌う潔癖症偽善者がよくいるが、最近とくに増えてきているのではないかと思う

統計がないのでなんとも言えないが、もし増えているのだとすれば憂慮すべき事態である

典型例の1つとして、ガキにケータイを持たすなという論者がいる

可愛い子には旅をさせよという健全教育理念を持った親は、今やマイノリティであり、

気狂いじみた過干渉教育マママジョリティなのである

あろうことか父親までもが、ガキ嫌いもあってか、それに付和雷同しているから、もう手に負えない

俺の母も教育ママキモいくらい干渉してきたが、父は寛大で器が大きく、信頼できる父親だった

また、俺の世代だと、核家族化がそれほどでも無かったので、祖母に甘えることだって出来た

祖母はお小遣いをくれたり、ガミガミ言う母をたしなめたりしてくれたものである

これに類する現代人的潔癖症というのは、この紙幅に書き足りないくらい、他にもたくさん例があり、枚挙に暇がない

文明が豊かになり、生活が便利になり、選択の自由が出来たことで、それが潔癖症の温床となり、

かような現代人的潔癖症患者が大量繁殖したものと思われる

そのような患者・・・これは患者と言って良い・・・は、人生において数々の制約や衝突を被ることになり、

あとあとの人生の幅を大きく狭めることとなる

すべて自業自得である

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ブクマコメ

「潔癖性」を度を超して嫌う「潔癖性」に陥ってないかな

それは何かに対し否定的な人に対して否定的な態度をとる時に共通する構造だから、無理のある批判

過干渉は教育学でも問題視されているから「度を超している」わけではない

結局、この文章から何かを察知できないという事は、根源的に人間理解が異なるんだよ

俺なんかは「感覚麻痺」と呼んでいる

そういう人が最近多いことは確かだ

ガキにケータイ持たせるなという人の多さに疑問を抱いたことが無いとすれば、根本的に感覚が異なるということだね

上のコメントにも見られるような形ばかりの批判をする人は、たいてい感覚麻痺してて、安直にすぐに価値を相対化してしまう人が多い

なるほど、任意の価値Xに対して、その反対の価値Yを持ち出し、X-Yという対立軸を作れば、なんでもかんでも相対化してしまえる

それでもって、中庸が一番と主張すれば、いかなる価値Xの絶対性をも崩すことが出来る

例えば、Xが人を殺してはいけないというものであれば、流石に相対化されにくいけれども、

近年では選択の自由が広がったため、多くの価値が相対化されやすくなっていることは事実である

なんでも相対化される背景には、様々な価値観が共存するごった煮社会になり、何が正しいかの感覚麻痺していることがある

感覚麻痺しているから、簡単に相対化してしまえる

すぐに相対化してしまえる人が何よりも厄介なのは、相手を理解せずに勝手に相対化する点だ

今回の例で言えば、「ガキにケータイ持たせるなという人の多さに対する疑問」を理解できない人が勝手にそういう考えに対し「放任主義」というレッテルを貼る

ここに大きな問題がある

実体験や知識に基づく詳細な理解が無いまま、対立軸を作って相対化し、形ばかりの批判をする

自分で何かおかしいということに気づかないといけない

一言で言うと、理解なき批判は悪ということ

なぜ学校勉強が必要かというのも、実はこの面が大きい

実体験はさすがに難しくとも、せめて知識面だけでも、土台となる知識を身につけることで、将来の人生での知識の実りを大きくし、

それにより、きちんと理解ある批判が出来るようになる

学校勉強をするのは、職業で役に立つからではないよ

そうではなくて、さまざまな物事に対し、しっかりした理解に基づいた態度をとれるようにすること、それにより、多くの物事との接触を可能にすること

ここに、学校教育意味がある

ちなみに、俺は学校先生をやっている

anond:20090801101552

予想の右斜め上の反応で申し訳ないけども

もうね、そういう考えができる人が大好きです。

anond:20090801175558

しかし現実は、大きな石なんてそうそう見つからないし、たとえ見つけたとしても、持ち上げ壷に収めることが出来ないものだよ…。

夢や希望・志なんてのは、大抵の人においては砕けて消える幻みたいなものだし、大切な人や家族や何やといった人間関係はそれ自体がほぼ幻想で、大切にしたところで裏切られ消えてしまうので、心の片隅では常に疑っているくらいの気持ちでほどほどに付き合ったほうが互いに気負いが無くて良い。自分という存在や自身の健康も、人生の中で自分を大切にするというのは自己説明的な循環を起こしてしまっているし、それ自体あまり重要とは思えない(人生の中で何かをするから、それをする自分が大切なら兎に角)。じゃあ、大きな石となりえるものっていったい何さ、と思う。わからない。

たとえ大きな石を収めても、死んだら壷は砕け散って、結局炉辺に転がっていってしまうんじゃないか。とすると、人生という観点で考えること自体が間違ってるような気がする。死んだのちには評価も出来ないのに、死ぬまでの短い時間に何をするかを考えるのってどうなのか。それならいっそ死後の観点から考えて有益な事をすべきなんじゃないだろか。或いはいっそ刹那に生きて、その時その時をのみ評価すべきなんじゃないだろか。

宇宙的な観点では、地球そのものがいずれ太陽に飲み込まれ消えてしまう。人類もその文明もいずれ消えて無くなる。人生で何かを成すのも、後世に残すのも、人間思考的な観点では全て無価値になる。だったらいっそ、生きている間にもっとも楽が出来るよう、もっとも楽しく生きられるよう考えたほうが良いんじゃないだろか。死後誰彼が迷惑するかなんて知ったことじゃない、どんな悪評が生じ噂されるかなんて知ったことじゃない、ただ生きている間最も快楽多く苦難少ないよう生きるべきじゃないだろうか。

なんてことを思った。

歯医者

レントゲン撮ったんですが、口を開き続けられない

顔の筋肉が相当衰えてる

http://anond.hatelabo.jp/20090801185304

お前もな。つか自分誤読をさしおいて言えた口かよ。

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