2018-12-10

ちあきなおみ喝采』の歌詞が嫌いだ

表題の通りだ。俺は昭和60年まれだが、この歌詞を尊んだ昭和人の感性がわからない(あえて術語をでかくするぞ)。

嫌いな理由を端的に述べると2つある。

まず、情景が飛び過ぎなのだ

そして、飛び飛びのシーンそれぞれが象徴的でゴテゴテと飾り立てられている点だ。

一番の歌詞

3つの空間がある。順に見て行くと、

A ステージで歌っている語り手に訃報が届く。

B 訃報の主が語り手を故郷? の駅で引きとめようとした3年前

C 故郷? での教会での葬儀の場面

ついでに二番の歌詞

D 教会白壁

E 故郷? 駅の待合室で、自分のヒットソング聴く

F 舞台でいつものヒットソングを歌う語り手

こう見ると、舞台立ては「都会のステージ――駅――教会――教会――駅――ステージ」と整っているように見えるが、実のところバラバラである

時の操作がめちゃくちゃなのだ

まずAが地味におかしい。

恋の歌歌う私に黒い縁取りの訃報が届くのだ。

冷静に考えるとステージ去ってから訃報を目にするのだろうけど、見かけ上ステージで歌っている語り手に郵便屋が届けたように書かれている。

それだけAの時点で時系列の運びが性急なのだ

そしてB。

Aがおかしいのにいきなり「あれは3年前」とか言い出す。

そしてC

いきなり時が戻り、そして故郷に帰って葬式に出ている。

空間バキバキになっていることが解るだろう。

そして良いシーンをこれでもかこれでもかと持ってくる。「ほれほれ良いシーンどんどん行くよー」的な過剰包装的な過度の装飾。


C-Dへの情景の経過はやや丁寧だ。昼下がりから夕方葬儀が行なわれたのだろう。

そしてE。

駅に戻ってきたのは解るのだが、対称となるべきBの位置と異なる。

B動き始めた汽車に一人飛び乗った:ホームでの出来事だろ

E暗い待合室

Eはラストへの布石になるし、一人になったことを示していて叮嚀な箇所もあるが、しかしどうも空間がずれている。


こんな感じで、情景が性急に飛びすぎな印象を強く受ける。

そして、それがさもありがたそうに語られ唄われる。今でも「昭和名曲」としてありがたがられる。でもそれは虚仮だと思う。

なんつーか、下品表現なんだけど、昭和にわか成金にわか教養人、にわか中流家庭に向けられた、安っぽい感動への舞台立てだなと思うのだ。

いかにも「名曲」のような装いをしているのだがその歌詞は人の死と愛を浅薄かつ性急にそろえただけのものだ。

こうした「インスタントな大作」感が気に食わないということだ。

このあともう少しすると、例えば米米CLUB浪漫飛行』みたいな具体性がほとんど何もない抽象的な歌詞流行る。

こうした傾向は、『喝采』に限らない具体的な情景描写稚拙さ、あるいは陳腐化の反動ではないかと思っている。

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