昨今やたらと出来事やら創作の表現やらを指して「これは多様性にあふれている!」みたく主張する人を見かける。ええ見かけちまうんですよぉこれが。
(「多様性」の部分は男女平等だとか反差別だとか、まあ他のリベラル的ワーオに置き換えていただいて構わないが)
だが、彼彼女らがそう推す事象や表現は「…いやそこまででもなくね?過去に溢れかえってるもんじゃね?」と思ってしまうような
取るに足らない、別にそこまで持ち上げるほどでもないものがぶっちゃけ9割以上なのである。
何故こうも「多様性」という言葉を使って持ち上げたがるか?と考えるときに私は「多様性空回り現象」という言葉を考えた。
彼彼女らは正義感がムダに強いからネットにそこかしこある「多様性が大事だ!」というコラムみたいなのに感銘を受けて、
「そうだ!多様性だ!」「多様性は大事だ!」と錦の御旗に掲げるのである。まあそれは良いことだ。うん素晴らしいことだ。
だが普通「多様性」の定義を先にして、それに事象や表現を照合してこれは多様性あるものか?と考えるのがスジだろうに、
彼彼女らは違うのだ。
ただ自らが好んだ事象や表現について持ち上げたいためだけに、「多様性」の定義なぞどうでもよくあやふやなままで、
『多様性ってイマい持ち上げワードだなっ使おっ☆』な気分で「これは多様性にあふれている」と言っているだけなのである(大体自覚は無いので余計タチわろし)。
これも結局は「自分は多様性に理解ある人間である」というアッピルを強引にしたいモチベーションに他ならないのである。
とにかく「自分は多様性に理解ある人間だ!間違いない!」という思いだけが先行してひたすら空回りする…
まあ現状はまだまだ「多様性」という概念は世間に浸透していない(せいぜいネット論壇の範疇)…
だが今後10年くらいの間で教育やらニュースやらで世の人に知れ渡るようになればなるほど、
針小棒大に「これこそ多様性だ!」と叫ぶ人がどんどん増えていくと私は予想するよ。
お前ら、覚悟しといた方がいいゾ?