2018-11-06

多様性空回り現象」という仮説

昨今やたらと出来事やら創作表現やらを指して「これは多様性にあふれている!」みたく主張する人を見かける。ええ見かけちまうんですよぉこれが。

(「多様性」の部分は男女平等だとか反差別だとか、まあ他のリベラル的ワーオに置き換えていただいて構わないが)

だが、彼彼女らがそう推す事象表現は「…いやそこまででもなくね?過去に溢れかえってるもんじゃね?」と思ってしまうような

取るに足らない、別にそこまで持ち上げるほどでもないものぶっちゃけ9割以上なのである

何故こうも「多様性」という言葉を使って持ち上げたがるか?と考えるときに私は「多様性空回り現象」という言葉を考えた。

彼女らは正義感がムダに強いかネットにそこかしこある「多様性大事だ!」というコラムみたいなのに感銘を受けて、

「そうだ!多様性だ!」「多様性大事だ!」と錦の御旗に掲げるのである。まあそれは良いことだ。うん素晴らしいことだ。

だが普通多様性」の定義を先にして、それに事象表現を照合してこれは多様性あるものか?と考えるのがスジだろうに、

彼女らは違うのだ。

ただ自らが好んだ事象表現について持ち上げたいためだけに、「多様性」の定義なぞどうでもよくあやふやなままで、

多様性ってイマい持ち上げワードだなっ使おっ☆』な気分で「これは多様性にあふれている」と言っているだけなのである(大体自覚は無いので余計タチわろし)。

これも結局は「自分多様性理解ある人間である」というアッピルを強引にしたいモチベーションに他ならないのである

とにかく「自分多様性理解ある人間だ!間違いない!」という思いだけが先行してひたすら空回りする…

これが「多様性空回り現象」ではないか、と私は思う。

まあ現状はまだまだ「多様性」という概念世間に浸透していない(せいぜいネット論壇の範疇)…

だが今後10年くらいの間で教育やらニュースやらで世の人に知れ渡るようになればなるほど、

しょーもない、凡百で、既存でありふれた事象表現を、

針小棒大に「これこそ多様性だ!」と叫ぶ人がどんどん増えていくと私は予想するよ。

お前ら、覚悟しといた方がいいゾ?

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん