2018-08-26

刺青に対して個人意識統一はできない

中学の時、一番の親友家出をして捜索願が出たことがあった。

当時中学生は携帯電話なんて持っていないので行方もつかめず大変な騒ぎになったことを覚えている。

しばらくして友人が家出した先の“ある職人から親に連絡が入り居所が掴めた。

“ある職人”というのは彫り師だった。友人は彫り師になりたくて家出したと後で話してくれた。

本当は学校も辞めて修行してそこ(確か東京だったと思う)で職人になろうと思ったらしい。

でも師匠が親を心配させるな、まずは学校を出てお金を貯めてから来いと言ったみたいだった。

無事に地元に帰ってきたその子とはまた学校で話したり遊んだりした。

少し経って実はあの時刺青を入れたのだと話して見せてくれた。

今でもハッキリ覚えている、小さいが美しい桜の柄だった。繊細に描かれたそれは綺麗で嫌悪感はなかった。

入れる時に痛かったかとかお金はどうしたかとか聞いた気がするがそっちの方はよく覚えていない。

親にはまだバレていないがもし見つかったら縁を切られるかなと言っていた気はする。

の子の家は結構裕福で、スポーツができて、頭も悪くなかったし、だから私にとってはかなり衝撃的だった。

しかし同時に真面目で根暗で親や先生の言うことに従うだけの私には彼女の行動力が輝いて見えた。

絶対真似できないなと思った。この子はいつか私の想像も及ばない世界に行ってしまうのだろうなと。

中学卒業して、高校に入ってからもその子とは少しだけ交流があった。

クラスは違ったが同じ高校に入ったのだ。球技大会で話したのを覚えている。

しかしそのうち見かけなくなって、卒業たかどうかは分からないままだ。

の子スポーツ推薦で入ったので、もしかしたらプロになってるのではと名前検索したこともあるが分からなかった。

きっと向こうは私のようなモブなんて覚えてもいないだろうけど。

この出来事があって私の刺青に対する感覚は恐らく他の人と少し違っている。

の子も私ももう子を持つ歳だ。まだあの桜の刺青はあの子ふくらはぎに在るのだろうか。

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