自分が無知であることを自覚することは、物事を客観的に捉える上で非常に重要なことである。
例えば、とある出来事に対して説明する時、文章で説明する場合には焦点を1つに絞って説明する。
それが殺人事件であるならば、死因、動機、犯行日時、被害者との関係、共犯の有無、家族関係、財産関係、権力関係、犯人の性格、生い立ちなど。
挙げればキリがない。
すべてを詳細に説明するのは難しいので、説明を受ける側に入ってくるのはその特異性と、切り取った者の主観が入る。
あの事件はこうだったから、俺が考えるには○○が原因だ。など、誤差に誤差を重ねて事実との乖離が進む。
噂話の類も同様のブレが発生する。
人々は、まるである要因を独立したものとしてとらえ、要因と要因の相互作用を無視しがちだ。
だから、特定の要因にのみフォーカスされた説明というのは、その点でも大きな誤差を生んでしまう。
街の居酒屋でろくに勉強もしていない中年が日本酒を片手に全てを判ったように政治や世の中を語っている。
彼らはこの切り取られ方による誤差を理解しているのだろうか。
自分が何を知らないのかを知っているのだろうか。
甚だ疑問である。