□×△と△×□,答えは同じだけど,意味は違う(2013年版) - わさっきとそのコメントに関する雑感。
そもそもだ、小学校から高校までの教科書において多くの場合特殊なルールが存在する。例えばこういう問題。
1.This is a pen.を疑問の形にしなさい。
これをThis is a pen?と書くことはほぼ認められていない。
同じように物理の力学の問題に量子力学を持ち出すと間違いになる。歴史も同じだ。諸説が色々ある物も一通りの答えしか認められていない。それら全てに因縁をつけていくつもりなのだろうか?これらの特殊ルールは高校まで付きまとう問題。授業ではその特殊ルールも同時に教えている。それは一重に文部科学省がそう定めているから。
ここで3×5が算数だと×で数学だと○になるというのはおかしいという考えをする人がいる。どちらも正しいと言う主張だ。ところでここで一番の曲者が「正しい」という概念。これを小学校では学ばない。高校でも学ばない。「正しい」とは何か?これは大学で哲学科にでもいかない限り普通は厳密に考えるものではない。感覚的に知っているというだけだ。「×」と「○」が何を意味するか?といえば小学校のテストのルールに当てはまるか当てはまらないかという極めて単純な記号に他ならない。「○」が一般的に正しいという事は何一つ言っていないし「×」が一般的に正しくないとも言っていない。
ではなぜこれらの特殊ルールができたかと言えば、現場としてあった方が教えやすい。それだけの理由だろう。教えやすくするために、ルールを設ける事に異論を唱えるのは無粋だろう。高校まで暗黙で存在しそれらのルールの中で、現に今の大人にとって教育が実現できているのだ。
3×5を×にしようが○にしようが大きな問題ではない。この問題の解答に批判をする人が、元の文章題から答えを導けない大人になってしまっているだろうか?そうではない筈だ。教育という立場で考えれば「×」にせよ「○」にせよどちらでも良い。仮に現場がこれを「×」にするというルールがある方が教えやすいというのであれば、そのルールを採用するのが「○」ではないだろうか。
3×5 →×、5×3→○にする事を批判する理由が分からない 「正しい」と「正しくない」、「○」と「×」の違いについて、議論したところで、最終的には「誰かが決めること」でしょう...
ルールで決めて効率的に教えることができるなら、それはそれで良いのかもしれない、と思う。学年によって数式に対する認識が変わっていくというのも、そんなに不自然ではないだろ...
それは一重に文部科学省がそう定めているから。 掛け算の順序について言えば、文部科学省はそのようなものを定めていないよ