はてなキーワード: 道義とは
炎上覚悟でいわしてもらうと、女性からの告白に加害性など無い。普通に告白すればよい。告白されて嬉しくない男などいない。(いたらそれは単なる勘違いの痛い男だから別れたほうが正解)ただし付き合えるかどうかは別だ。男の側にも諸事情があるからね。
世界が完全に勘違いしているが(あるいはわかっていながらあえて無視しているが)男女の性は対等ではない。ヤル側(法律上道義上の責任以上のものは生じない=その気になればいつでも逃げられる)と、ヤラレル側(=命を懸けて妊娠出産子育てをする義務が強制的に生じ、逃げられない)の性に対称性などない。
したがって男女は「区別しなければならない」のが正解であって、これは「差別」とはわけが違うのだ。男女は不平等なのではなく非対称なのである。
刑法175条は、「わいせつ」な表現は罰する、としか規定していません。
モザイクが有れば合法などということは全く関係ないです。モザイクが有ろうが無かろうが「わいせつ」ならOUTです。
モザイクが有ろうが無かろうが警察が「わいせつ」だと決め付ければ、そのままOUTになるのが現状です
モザイクをガッツりかけていても「わいせつ」だと判断された例もあるし、逆に無修正でも(芸術だから)「わいせつ」でないと判断されて無罪になった例もる。
法律で「わいせつ」とは何かが全く示されておらず、警察の恣意的に運用されてるけれど、
「わいせつとは、徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」
とある。
一方、着衣の上からの無断撮影が「羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」行為で迷惑行為防止条例違反で逮捕されたりしてるから。
知己の死に触れ、告別式に向かう。死体を見る必要を特に感じなかったので受付を済ませ弔いの花と香典を渡しそのまま席に腰を下ろそうとすると、喪主が顔を見てやってくれと2度言ってきた為に顔を見に行く。(己は喪主と面識は無かったのだが花を渡したから促されたのだろうか?)
棺桶を覗き込むと生前と然程変わらぬ穏やかな死に顔を整えてあり、さもありなん(生命活動を終えた肉体がそうなっている状態として自然な様子である、特に感慨はない。肉親を含み、過去2回見ている)と思ったが、悲しむのが礼儀と認識はしているため、心掛けて悲しい顔をした。
焼香を済ませ、棺に蓋をする手前、仏花を全て棺に入れていく旨あり、列に並び、係員によって盆の上に盛られている花達を手に取り遺体に添えていく。
人々の泣き声を聞きながら何度かその行為を行っていると別の知己が傍にやってきて、悲しい、残念だと涙を流すので、本当に、言葉もない、残念なことだと同意して心掛けて涙を滲ませ労る為に相手の肩をさすった。
夏目漱石の「思い出すことなど」を読んでいると、地球という天体はそも一塊の瓦斯から発生した程度のもの、宇宙の歴史から見れば人の一生はほんの瞬く間、その構造を鑑みると本来は生死を一喜一憂するまでもない事象といった事を述べた直後に知己の死への弔いの句を認めている為、システムとしての生死と、道義としての生死を別枠で認識している、せねばならんと能動的に意識しているのだろうと感じ、共感を抱いた。
他者が人の生や死に一喜一憂するのを無駄とは言わないが、己が同様にそう出来るかどうかはまた別の話である。己以外の他者も或いはそんなものかもしれないが、確認のしようはない。
悲しくない訳ではない。本来なら人前にそれをわざわざ出す必要を感じない、というだけの事で。他者の目があるので奇異に映らぬよう意識して外に出す努力はするが。
ジャニーズ問題、所属タレントの起用を取りやめたりするジャニーズパージが広がっている。
当然、今までこの問題に対し隠蔽し無視し圧力をかけたジャニーズ事務所に対する制裁として正当なもので、取引を続ける企業があるとすれば道義を弁えない企業だと思われるのも当然だ。
ジャニーズ所属タレントの仕事が激減することに対して「見て見ぬふりをしたタレントもまた共犯だから制裁されるべきだ」と言われているのは少々辛い物がある。
事務所で良い地位に行く打算があったとするのは、性加害とグルーミングで自由意志が奪われた彼らに対してそう言えるのか?
それは「レイプされたくなければ抵抗したはずだ抵抗しなければ同意があった」とするセカンドレイプと同じ理論ではないか?
自分が受けた虐待を心の安寧のために「いいことだ。」正当化するしかこともある。
事務所が壊されると、「せっかく虐待から生き残ったのに自分の人生は何だったのか」という気持ちに耐えられず、逆に事務所を擁護することもある。
これが洗脳の恐ろしさだ。
そのためにはファンと他の事務所が新たな居場所を作るべきなんだろうが、ファンはファンで事務所というブランドに執着してて、加害を否定及び加害を肯定する勢力を執拗にバッシングしていて、間接的な加害は今も続いている。
今回の件でファンが離れるどころかより一層ファンとジャニーズの絆深まってたな❗️❗️❗️❗️ジャニオタ舐めんな❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️
もっと悪辣な、告発者を中傷したりマスゴミ呼ばわりしたりネトウヨ陰謀論者とのハイブリッドみたいなやつもたくさんいるので、
ここに上げたのはほんとうに中庸の層と思われる。
タレントに対する性搾取構造がなあなあのまま温存されることへの危惧、
性加害者の「名誉」が公に守られ続けることによる性被害者への悪影響、
そんな諸々は彼女たちにとって全く眼中にない。
彼女たちを支配しているのは、タレントを推すという活動の快楽のみである。
彼女たちを浅はかと嘲笑うのは簡単だが、ただ、一般的な日本人より特別に愚かなわけでもない。
日本社会において、社会的な道義や自分なりの正義に基づいて行動できる人はほとんどいない。
逆に行動動機として、社会的道義や正義を掲げようものなら笑いものにされる。
アニメーターが搾取されているのを知りながらアニメを貪り見る人、
ユニクロがウイグルの奴隷労働による綿を使っていると知りながらユニクロの服を着る人、
外国人技能実習生が低賃金で重労働をさせられていると知りながら農作物を食べる人。
みんな、知っているけれど、自分たちの欲望を満たすために一度棚上げにしているだけだ。
こういった状況をどう打破するか。
セクハラはずっと昔から「やってはいけないこと」ではあったが、
ほんの十年前までは棚上げにされていた。
男性の側はそんなことで怒られちゃたまんないよ笑と言い、
女性の側もそのくらいうまくかわせないほうが悪い、コミュ力の問題、と軽くあしらっていた。
しかし、海の向こうで有名人が見せしめのようにセクハラで仕事を干されバッシングを受けると、
とたんに社会全体の「やってはいけないこと」ラインが大幅に下がった。
体型について口にしたり、なんてことをすれば多くの人に眉を顰められるだろう。
彼らを変えるには、結局は社会的に大規模なバッシングと見せしめに非難される人間、つまりは不利益と恐怖が必要となる。
「ジャニーズいつまでも推します!」という人たちも、その「推し」行為が自分たちに快楽でなく苦しみをもたらすと知ればすぐに身を翻すだろう。
彼女らはそういう「ふつう」の人たちなので、痛みを持ってしか学習しない。
だがこの方法には問題があり、一部のカルトめいた信者層は苦しめば苦しむほど強固に耽溺し、エコーチェンバーの沼に浸かっていく。
セクハラを糾弾する声が大きくなる中、ミソジニーたちが凝り固まって言ったのと同じである。
それはさらに十年も放置すれば社会との軋轢によって身を滅ぼしてはいくのだが
(数々の著名人たちが、差別的言動による身の破滅をもって証明してくれたとおり)。
フェミニストにも様々な考え方があるように、表現の自由戦士の考え方も一つではなく、表現の自由が公共の福祉によって制限されることを認めない原理主義的な表自戦士は表自を代表しているとは言えない。表自を自称はあえてしていないが、考え方は表自に近いので反論しておく。
まず、判決文の原文 (https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/271/051271_hanrei.pdf)を読んだがこの判決については特に異存がない。
事件概要なんかは載せてくれているしわかりやすくまとめっているので割愛する。ここでは増田が書いていない社会通念部分について判例を要約する
つまり、刑法175条における猥褻は社会通念で決まり、裁判所が決める社会通念に基づいて判断した結果が判例として基準となる。
明示とは言えないが、ある程度境界線の場所は見えていて共通認識を持てている。それこそが社会通念と言える。
問題は、その線からはるかに離れた独りよがりの社会通念を振りかざして排除しようとするフェミの姿勢である。
6月23,24日に県営施設であるしらこばと水上公園において「水着撮影会」が行われます。入場料は1万円から3万6千円と高額なもので、過去のイベントの動画をみると水着姿の女性がわいせつなポーズやわいせつなしぐさで映っており、明らかに「性の商品化」を目的とした興業です。
猥褻の基準を刑法175条の過去の判例とすれば該当しないのは明らかである。陰部を露出していないどころか乳首すら出していない。もしこれをもって猥褻とするのであればオヤジ雑誌の袋閉じどころかヤングジャンプの発行責任者ですら逮捕されているだろう。もちろん、刑法175条における判断基準は出版物に対するものなのでイベントに適用されるものではないが、イベントを中止に追い込むのであれば、同様な根拠(我々の観念こそが社会通念であるという証拠)を法令と類似事例の判例で示す責任が中止を求める側に存在する。
とあるが、裁判所がいうように判断の基礎は一般社会において行われている良識または社会通念として存在している。そこから逸脱した社会通念とは違う別の何かを持って中止に追い込もうとする輩に対して基準を示せというのはごくごく当たり前の主張と言えるのである。
追記: