はてなキーワード: 愛別とは
同じ熊が何度も人を襲うことはないのか。ノンフィクション作家の中山茂大さんは「大正元年から2年にかけて、北海道の朝日村、愛別村などで起きた連続食害事件は同じ熊による犯行の可能性がある。最大8名を喰い殺した稀代の人喰い熊かもしれない」という――。
吉川伊平(37)は、近所の伊藤幸平を誘い、堅雪を踏みしめ、10線南10号山林中へ鉄砲を担いで出かけた。
吉川が獲物を見つけて発砲すると、音に驚いたヒグマが飛び出してきた。
いったん大木に登ったヒグマは、吉川を見つけると飛びおり、立ち向かってきた。吉川は直ちに第2弾を発射したが、ヒグマは吉川に襲いかかり、即座に噛み殺して、その肉を喰らい始めた。これを目撃した伊藤は恐れをなして逃げ帰った。
こういう時代になってはじめて諸行無常というのが本当に理解できる時代になってきたんじゃないか?
諸行無常というのは、単に万物が変化していくという現象のことだけを指すのではない。
その本当の意味というのは、社会を規定するパラダイムが凄まじいスピードで変化していくことを表すものだ。
極端に言えば、高度成長期に諸行無常なんてものは存在しない。会社に新卒で入ることが出来れば定年まで働けることが保証されている。さらに景気も順調に伸びていくので、年齢に比例して必ず給料は上がっていく。家も買えるし、子供も安心してつくれる。それは、社会が線形的に動いている、つまりあるパラダイムの中で動いているからである。予測可能な変化というのは無常ではない。一流の大学に入って一流企業に勤めていれば、人生は全て安泰であるという中では諸行無常という発想などは生まれようがない。
しかし、いまはもうそんな世の中ではない。例え一流の大学(この表現自体が時代遅れのように思うが)に入っても、内定をもらえない人間はたくさんいる。内定したと思ったら取り消しにされる間もいる。就職できてもリストラされたり、給料が伸び悩み生活に苦しむ人間もいる。資格をとっても安泰というわけではない。公認会計士や弁護士が就職に苦しんでいる。努力に比例する結果が約束されることはもはやなくなってしまったのだ。それはパラダイムが変化しているからである。もはや何に向かって努力していくべきかという目標ですら変容し、掴みどころのない曖昧なものになってしまったのだ。
今の世においては、自分の人生は保証されない。社会を構成していた規則、パラダイムは急速な勢いで変化していく。そんな中では人は生きようとしている。しかしそこには安心がない。時代の流れはもはや緩やかな川ではない、激流であろう。人はそのの流れを把握し、乗っかっていくしかない。ただ漫然と生きることは破滅につながる。そのような孤独、不透明な社会の中で人は生きていかなければならない。この流れは激流であると同時に、もはや止めようのない大河である。
これは強烈な理不尽でり、不条理である。実はこれこそが仏陀の感じていたものではないのだろうか。例え栄華を極めても、病魔は防ぎようがなく、また人々はたやすく飢饉で死んでいく。人のコントロールできない流れというものが人を支配している。そのような中でその終わりない流転に抗い続けることがいかに苦しく、空しいか。
そういう意味で、現代人は愛別離苦に遭遇している。人は愛していた線形的な世の中から切り離され、確固であったはずの自分を常に動かしていかなければいけない。それはある意味で精神分裂病だ。人は同じ人間であることをもはや許されない。過去の自分を否定し続けていくという永久の不連続に立ち向かわなければいけない。
だからこそ世の中は諸行無常である。現世の価値、これは今は確固たるものではない。茫々として常に動いているものだ。そんなものを追いかけて生きていく人生を辛く、厳しいものだと感じるのは決して間違っていることではないのではないか?
生老病死
愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
あと1個が思い出せない
http://anond.hatelabo.jp/20090424132238
a life consists of eight kinds of pain じゃないかね。単複がコプラで繋がれてると気持ち悪い。
みんなどうしてそんなに愛が欲しいのだろう。非コミュの負け惜しみに聞こえるかもしれないが,これは率直な疑問だ。他人に求められることって,人生においてそれほど重要だろうか。私も別に積極的に憎悪や嘲笑を浴びたいとか無視されたいとは思わないし,仕事でも私生活でもそれなりに愛想をつかう。でもそれは厄介を避けたいからであって,それ以上の状態は特に望まない。敵にさえならなければ,他人なんてどうでもいいじゃないか。現実には人の手を借りて生きなきゃならないからコストを払って人付き合いもするけれど,条件が許すなら孤独ほど楽しいものはない。
他者から欲望されたいと欲望すること,そのメタ構造が動物的欲望とヒト的欲望の違いなのだとどこかで読んだ。その意味で言えば,私みたいのは人間性が薄いんだろう。でも人間性の濃さが誇るべきことだとも思えない。愛別離・苦怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦。仏陀はなかなかいいことを言ってるじゃないか。
仏陀が言ったのは苦しみの克服でしょう。セックスしている人たちの幸福を祈ることではないですね。
一切皆苦、という四字熟語が出てきましたが、ほかにもありますよ。
生老病死→説明不要でしょう。
愛別離苦→「愛する者と別れなくてはならない」…セックスしている人たちにも必ず訪れる苦しみですね。
怨憎会苦〔おんぞうえく〕→怨んだり憎んだりする人と会わなくてはならない苦しみ。
求不得苦〔ぐふとっく〕→求めるものが得られない苦しみ。
五蘊盛苦〔ごうんじょうく〕→健康で心身が活発であるのに、かなえられないものが多いという苦しみ。
よく観ていると思いますね。2500年前から苦しみの種は同じなんだと思います。
苦しみを直視して、その上に執着を捨てて苦しみを克服せよ、というのが仏陀の教えの一端ですね。
ただ、これは私の考えですけれども、今の世の中に仏教の教えは参考にならないと思いますよ。
建設的なことが何もできなくなるおそれがありますから。