こういう時代になってはじめて諸行無常というのが本当に理解できる時代になってきたんじゃないか?
諸行無常というのは、単に万物が変化していくという現象のことだけを指すのではない。
その本当の意味というのは、社会を規定するパラダイムが凄まじいスピードで変化していくことを表すものだ。
極端に言えば、高度成長期に諸行無常なんてものは存在しない。会社に新卒で入ることが出来れば定年まで働けることが保証されている。さらに景気も順調に伸びていくので、年齢に比例して必ず給料は上がっていく。家も買えるし、子供も安心してつくれる。それは、社会が線形的に動いている、つまりあるパラダイムの中で動いているからである。予測可能な変化というのは無常ではない。一流の大学に入って一流企業に勤めていれば、人生は全て安泰であるという中では諸行無常という発想などは生まれようがない。
しかし、いまはもうそんな世の中ではない。例え一流の大学(この表現自体が時代遅れのように思うが)に入っても、内定をもらえない人間はたくさんいる。内定したと思ったら取り消しにされる間もいる。就職できてもリストラされたり、給料が伸び悩み生活に苦しむ人間もいる。資格をとっても安泰というわけではない。公認会計士や弁護士が就職に苦しんでいる。努力に比例する結果が約束されることはもはやなくなってしまったのだ。それはパラダイムが変化しているからである。もはや何に向かって努力していくべきかという目標ですら変容し、掴みどころのない曖昧なものになってしまったのだ。
今の世においては、自分の人生は保証されない。社会を構成していた規則、パラダイムは急速な勢いで変化していく。そんな中では人は生きようとしている。しかしそこには安心がない。時代の流れはもはや緩やかな川ではない、激流であろう。人はそのの流れを把握し、乗っかっていくしかない。ただ漫然と生きることは破滅につながる。そのような孤独、不透明な社会の中で人は生きていかなければならない。この流れは激流であると同時に、もはや止めようのない大河である。
これは強烈な理不尽でり、不条理である。実はこれこそが仏陀の感じていたものではないのだろうか。例え栄華を極めても、病魔は防ぎようがなく、また人々はたやすく飢饉で死んでいく。人のコントロールできない流れというものが人を支配している。そのような中でその終わりない流転に抗い続けることがいかに苦しく、空しいか。
そういう意味で、現代人は愛別離苦に遭遇している。人は愛していた線形的な世の中から切り離され、確固であったはずの自分を常に動かしていかなければいけない。それはある意味で精神分裂病だ。人は同じ人間であることをもはや許されない。過去の自分を否定し続けていくという永久の不連続に立ち向かわなければいけない。
だからこそ世の中は諸行無常である。現世の価値、これは今は確固たるものではない。茫々として常に動いているものだ。そんなものを追いかけて生きていく人生を辛く、厳しいものだと感じるのは決して間違っていることではないのではないか?
平安貴族の世の中から、鎌倉の武士の時代へ 貴族であることは、なにも保証はしない・・・ 鎌倉新仏教は偉大 高度成長期からバブル崩壊なんて屁みたいなもんですな