神戸大学追放後、私はサナトリウムから抜け出し、新幹線とタクシーで千葉に帰った。
実家に帰ることも考えたが、既に私が帰る場所などなかったことを思い出し成田へ向かうことにした。
成田山の参道沿いを歩き、千葉県立成東高等学校に進学した彼女と共にここを歩きなごみの米屋の栗羊羹を食べたことを思い出した。日本女子大学を卒業し管理栄養士として働いていた彼女は他の男と結婚し出産を経ていた。そしてその頃、子宮頸がんによりその命は風前の灯であった。
私は叔父から渡された手切金で当分生活には困らないことを確認すると、なごみの米屋で羊羹を買い川豊で鰻を食べた。元町でもよく鰻を食べた。医学生時代、一橋大学の同級生で神戸市役所勤務の女性と同棲していたが、彼女の両親になぜか気に入られよく4人で青柳という店の鰻を食べたものだ。
しかし、やはり私にとって鰻は元町の青柳ではなく、成田の川豊なのである。
ストックホルム貴族たちの慇懃無礼な態度、そして私がチェコで仕留めた牡鹿を自分の手柄にしたリヒテンシュタイン家の侍従、彼らの醜悪な計画。