2023-06-27

結局、世の中を動かすのは暴力なのだ

ワグネルの反乱をみていてつくづく思った。

ワグネルだけではない。

山上もだ。

彼は彼が行った暴力ゆえに人々は彼の言に耳を傾けた。

暴力には力がある。

そして、その暴力は必ず成功させなければならない。

もしも、山上の手製の銃が煙だけ出て不発の出来損ないだったならどうなっただろう?

おそらくネットではお祭り騒ぎになって、山上は擦り倒されて大いに笑いものとなっただろう。

もちろん彼の犯行の背景にある深刻な問題なんて、その大きな笑い声にかき消されて聞こえなかっただろう。

サラダ油の君。

彼なんてそうだろ?

彼の暴力は全く成功しなかった。

から、彼の背景にある彼の人生問題は極めて軽いものとして扱われた。

一方でとある施設で大量の殺人を犯したもの、彼なんて何やら重いものを背負った人間として受け取られて、なかに結婚したいなんて女性が現れる始末だ。

あれも、彼が大量殺人に失敗してすぐに取り押さえられていたなら、三文記事になるだけで彼に対して誰も関心は抱かなかっただろう。

 

暴力には「力」がある

そして暴力成功しなければならない。

 

それにしてもおかしな話だ。

世の中、暴力否定しながら

暴力に失敗したものより

暴力成功したものの方を偉人として捉える。

殺人未遂の人間より、

殺人者のほうがより立派な人間であると考えるのが人の世。

やはり人間は性悪、力の信奉者なのだ

ウクライナ人が日々、行っているロシア人に対する暴力

誰もそれを否定しない。

なぜなら正義暴力から

もしも、あの日、あの時、ウクライナ人ジャベリンを担ぐかわりに

白旗を掲げ、ゼレンスキー海外に逃亡していたなら

人々はウクライナに対する尊敬の念を今のように抱くだろうか?

そうしたほうが人命は失われなかっただろう。

それでも人々は戦わない人間に対して厳しい。

そう人は戦わなければ生きる価値を認めてもらえないのだ。

そして戦いとは暴力のことである

からこそ人々は力の信奉者となるのだ。

もう答えは出ている。

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