ワグネルの反乱をみていてつくづく思った。
ワグネルだけではない。
山上もだ。
彼は彼が行った暴力ゆえに人々は彼の言に耳を傾けた。
暴力には力がある。
もしも、山上の手製の銃が煙だけ出て不発の出来損ないだったならどうなっただろう?
おそらくネットではお祭り騒ぎになって、山上は擦り倒されて大いに笑いものとなっただろう。
もちろん彼の犯行の背景にある深刻な問題なんて、その大きな笑い声にかき消されて聞こえなかっただろう。
サラダ油の君。
彼なんてそうだろ?
だから、彼の背景にある彼の人生の問題は極めて軽いものとして扱われた。
一方でとある施設で大量の殺人を犯したもの、彼なんて何やら重いものを背負った人間として受け取られて、なかには結婚したいなんて女性が現れる始末だ。
あれも、彼が大量殺人に失敗してすぐに取り押さえられていたなら、三文記事になるだけで彼に対して誰も関心は抱かなかっただろう。
暴力には「力」がある
それにしてもおかしな話だ。
誰もそれを否定しない。
もしも、あの日、あの時、ウクライナ人がジャベリンを担ぐかわりに
そうしたほうが人命は失われなかっただろう。
それでも人々は戦わない人間に対して厳しい。
そう人は戦わなければ生きる価値を認めてもらえないのだ。
だからこそ人々は力の信奉者となるのだ。
もう答えは出ている。