例えばだ、男女問題や少子高齢化問題などへ様々な人が口を出すけれど、これら問題へ口を出す人の多くはこれら問題へ対して明確な回答を示すことが出来ないでいる。
「問題へ対して明確な回答を示すことが出来ない」のは「世の中には答えが出しにくい問題がある」であり、これについて何ら悪いことはないと思う。
もしも良くない点を指摘するのであれば「自身は明確な回答を示せないのに他者へは明確な回答を示せと強要する」ことであろう。
「他者へは明確な回答を示せと強要する」のに強要された側が「ではどのようにしたら良いと考えるのですか?」と問えば「気付いているはずなのにとぼけている」などと返して自身が明確な回答を示すことを避ける。
これはむしろ明確な回答を示せと強要する側がそれをすることが難しいことを気付いていながらとぼけているのだ。今直ぐに回答を示せないことを知りながら無茶振りをしている。
単に敵と見定めた層を攻撃したいのか、自身が明確な回答を示せないことが敗北だと考えているのかわからないが、誤った討論でありコミュニケーションであることは間違いない。
ただ、これらのことに関して朗報もある。
せ直近で子供3歳まで在宅勤務、企業の努力義務に 厚労省という記事が話題となったが、寄せられるブコメはそこそこ冷静だったように感じる。
「リモートワークができない労働環境の人たちのことも考慮に入れて欲しい」のようなブコメが散見されているが、そこから「だからこのような制度は駄目だ廃止すべき」というようなブコメはあまり存在しない。
「ここが第一歩である」とするようなブコメや「介護をしているような家庭も含めては?」というブコメもあり、何ら議論のが進みようのない「自身は明確な回答を示せないのに他者へは明確な回答を示せと強要する」ブコメは非建設的だと多くの人たちが気づき始めており改善の兆候が見られる。
努力義務程度では議論にさえならないからですよ。