「〇〇に気が付く」ならわかるんよ。
でも「〇〇に気が付け」「〇〇に気が付いて下さい」この"が" ってなんか不自然じゃない?
「気が付く」ってそもそも能動的な行為じゃなくて不随意的な現象じゃん。
行動主体が自分なら自分の気「が」付いていることを現在完了的に把握するという段階を経て
その現象に対する評価として「(自分の)気が付いた」と振り返ることができる。
この場合気が付くという主体は自分だけどその気づきという現象の主役になってるのはあくまで「気」であって自分というのはその現象の観察者に過ぎないんだよな。
他者が命令する場合って命令する対象の能動的な行動への期待みたいなものを内包していると考えるのが通常だよな?
だから不随意的な「気が付く」という現象にその能動的な行動への期待を乗せていることに対する違和感がちょっと生じる。
「気が付いとけよ」って言うなら、「気が付いている状態にある」という意味合いになるからそうなると相手の能動性への期待を感じ取れるからちょっとしっくりくる。
あとは「気付けよ」とかも、「気付く」と書くと"が"で強調されていた「気」の主体性が薄まる気がする。