「宇崎ちゃんポスター叩き」を批判するのが別に「あのようなポスターが社会に溢れることを望んでいる」わけではないのは、ちょうど「女湯に入るトランスジェンダー叩き」を批判するのが別に「トランスジェンダーが自由に女湯に入れる社会を望んでいる」わけではないのと同じ構造なのだが、なかなか理解してもらえないね。
マイノリティが普段からどれだけマジョリティに慮って生きているかを想像することがないまま、一方的にマジョリティの都合で「おまえらは悪」と断罪しようとするから反発されるんだよね。
もうめんどくさいから「セックスが合法だから女性の性的客体化がなくならないんですよね?私はアセクシャルなので禁止されても困りません。全人類がアセクシャルなら二次元やドールがいくら女性を模していても生きた女性を性的に客体化するなどあり得ません。アセクシャルのアセクシャルによるアセクシャルのための平和な社会を実現しよう!」くらい主張していいよね。
擁護の意図がどうであれそういう社会の実現の後押しになるという自覚がないのがやばいんぢゃよ
セックスが合法だから女性の性的客体化がなくならないんですよね?私はアセクシャルなので禁止されても困りません。全人類がアセクシャルなら二次元やドールがいくら女性を模して...
「トランスジェンダーが自由に女湯に入れる社会」の実現の後押しになるという自覚がないのは「やばい」のか。ふーん。
ヤバくないと思うなら実現を望んでないとか予防線張らんでええやん 「そういう社会になってもええからわざわざ手間かけて擁護してるんや」と開き直ってやってくれ
うん。開き直ったよ。