2018-07-02

僕らは無意識に「死ね」と思いすぎている

「俺の目の前にいるのがアイツじゃなくてもっと俺にとって都合のいい誰かであればいいのに」

そう考えた事が何度あるだろうか?

その思考実質的に「ガチャを引き直したいのでお前は死んでくれ」と言っているのと実は大差ないのではなかろうか?

死ねとはごくごく単純明快かつ無垢でそれはまるで空気中の如く無色透明純水な拒絶である

ゆえにありとあらゆる拒絶は死ね意味を含んでしまう。

料理の味に文句をつける時その中には「この料理を作ったのが別の誰かであればいいのに」という他者存在に対する拒絶が混ざり、それは結果として死ねを含むことになる。

僕らの周りには透明な死ねがこれでもかと溢れている。

それが色を持ちだすのは心が闇に沈み始めた時だ。

微かな光が闇の中だけで色を持つように、無色透明と思われた死ねは心の闇の中においてだけその姿を現す。

心が闇に染まるほどに世界は今まで見えなかった死ねで溢れかえり、そのサイケデリック光景に恐怖して更に心は闇へと踏み込む

そうして最後には日々ぶつけられる無数の死ねに対する防衛本能として心が剥き身のナイフ武装しろと囁き出すのだ。


なんだこの文章、俺はラノベでも書こうとしてたのか。

落ち着け

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