2017-07-04

わたしはなにもの

けっしてメンヘラではない。という名の地雷を設置しよう。

わたしはなにものか?

からなくなったときはないだろうか。

わたしわたしを知っているし、知らないわたしも知っている。

自分を知らないことは往々にしてデメリットばかり注目される。が良い面もある。

二面性があるのだ。

自分なんてものは知らなくてよいときもある。

しかし、知れば幸せになれるというお金を稼ぎたい大人は言う。

実際、知れば知らない自分よりは幸せになることはできる。ただ、そこで失うものもある。それは夢である。くさい話であるがそうである

自分を知らないものは、自分では叶いそうもない夢を追いかけることができるのだ。それは自分を知らないかである。夢を追いかけるか、幸せになるかは選べるが選べない。というよりは、それは潜在意識が選ぶことではないだろうか。

自分がなにものかわからないのであれば、何かを追うべきである。その指針は潜在意識が示すものである別にからなくてもよいのだ。

他にも自分がなにものかわからないというものに得られるものがある。それは人を見る目が養われるという点である

自分がなにものかわからないので、他人分析して比較して自分を探すのだ。その過程でその力は得られる。

自分がなにものか知っている人は自分の強みを知ることができる。

自分がなにものかわからない人は

「ここではない、どこか」を追い求めている。

そんなもの存在しない。なぜならばそれはユートピアという名の何もない世界からである

二面性」

認識できるものがあれば認識できないものがある。

逆に

そこに認識できない何かがあれば、認識できるものもある。

ただ、認識できる、できないではなく、ある、ないでもなく。その中間世界存在する。人はそこをユートピアと呼ぶ。

そしてそこを目指すのだ。

ただ、中間を目指すがこの世には慣性の法則がある。それを知らない人間中間を通りすぎてしまうのだ。

そして、その世界には減衰するもの存在しないため、最初の振れ幅で人生は揺れ動くことになる。

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